最大限応援及び支援の所存也 「「1億年レコード」発表とM.A.F設立のお知らせ」
http://d.hatena.ne.jp/matsukiayumu/
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故Mさんのこれはそれが気になる。
これはそれが気になるし、特にそれに対する人々の反応が気になる。
とても売れているそうだ。
僕はこの映画を観ていない。
観ていないから100%混じりけ無しの類推であり、
偏見だ。
だから、ここから先の文章は
既に映画を観た人の気分を害する内容である
可能性がある。
もし、害してしまったなら、
ごめんね。てへ。
第一に。
彼にまつわる報道や評判に対する、僕の中の印象は、いわば、
亡くなる前は「負のゴシップ」で
亡くなった後、「正のゴシップ」に変わった、
という感じだ。
亡くなる前は
「常人には理解できない変態の俗人」
みたいな印象で
亡くなった後は
「地球愛と人類愛を貫いた聖人」
というイメージで消費されているのではないか。
第二に。
「地球愛と人類愛」はそれ自体は
誰も敵に回さない大義名分だ。
人々は後ろめたい思いもなく
心置きなくそれを支持し、
感情移入することが出来る。
現代において数少ない、相対化しにくい「愛」だと思う。
第三に。
お話の構造としては
(話の外の)プロローグにおいて
既に亡くなっているという伏線があるため
どんな場面でも人々は
常に死を予感させながら映像を観ることになる。
それが「死ぬ前の一瞬の輝き」効果とでも
言えばいいのか、かけがえのなさを強調することになるのだろう。
それは「世界の中心で愛を叫ぶ」と同じ仕組みだ。
「地球愛人類愛」+「死の予感」が
心置きなく感情を溢れさせる仕組みだと思う。
嫌な見方をすれば
人々は泣くのに都合のよい装置を見つけだのだと思う。
僕は別にそれはダメだと言っているわけではなく。
ただ単純に面白いなと思う。
この社会の状態が。
彼はある一面で実際のところ「聖人」だったのかもしれない。
もしかしたら別の一面では「変態の俗人」だったのかもしれない。
僕にはそれはわからない。
しかし、人々の反応は今のところ
僕には「彼こそが聖人だった」という反応のように見える。
そこに聖俗併せ持った立体的な人間像は見えてはこない。
人々の反応からは。
実際の映画は彼をどう描いているのかはわからない。
もし、描いているならば
「人々は自分たちが見たいものだけを見ている」
か
「人物描写が下手な映画」
という感想を持つだろうし、
描いていないならば
「裏でいったいどんな利権が絡んでいるんだろう」
とか
「映画監督は彼を立体的に描写することに興味がないのかな」
とか思うだろう。
まあ、いわば映画館で行う大規模な葬式みたいなものだから
いいところだけみてほしいのかもしれない。
しっかし、彼が映画に描かれている通りの
人間だなんてみんなほんとに信じているのだろうか?
ドキュメンタリーと銘打つだけで
そんなにみな信じるものなのかな。
演出はほんとにないのかな。
今まで散々ゴシップ的な人物像で消費されていたのに、
亡くなった途端にマスコミや
彼の周りの人間が
真実に興味を持ったり、正直に語り出す、
なんてことありうるのかな。
映画監督だけが正義の味方だったなんてことありうるのかな。
僕は潔癖症なんだろうか。
音楽だけで評価するほうが
まだ、誠実な気がするのは、気のせいだろうか。
映画を楽しむのに
そんな難しい顔してどうするの?
と言われてしまいそうだ。
多分、そこまで別になんてこともないことなんだろう。
だって、Mさんが亡くなって
仮にいいように着飾られて報道されたとしても
人々の生活は何も困らないもの。
僕もまあ、困っていない。
そんな金曜日。
ここ最近、ブログの更新が停滞しているのは
僕のせいじゃない。twitterのせいだ。
くだらないつぶやきは全て
ここに吐いてしまっている。
最初、断片的につぶやきを投稿することで
中途半端に文章を書く意欲が充足されて
長い文章を書く気力がなくなってしまう
ような気がしたけど、
そのとおりになってしまったということか。
まあ、その程度のことで
気力がなくなってしまう程度の意欲だったとも言える。。。
当初、twitterを始めたのは
何か音楽活動の足しにならないかと思って
始めてみたのだけど、なんだろ。
なんの足しになるのか未だによく見えない。
足しにはならないのかも。
しかし、twitterの持つ「リアルタイム性」
というのはちょっと面白い。
Ustreamで僕が弾き語りをライブ配信してみたりすると
リアルタイムにその反応が返ってきたりと
何か可能性は感じる。
twitter全体が一つの大きな部屋みたいなものなのだと思う。
大きな部屋で、一人で好きなことをやっていて
時々近くの知り合いと話をしたり
彼らがやっていることを眺めてみたりする。
そんな感じだ。
その比喩でいうとmixiは
個室があって廊下があって
それぞれ知り合いの部屋に繋がっている感じだ。
個室だからあまり他人の様子は見えない。
ドアののぞき窓ごしに彼らのやっている様子が
ちらっと見える。
ちゃんと見たいときは、
ドアを開けて彼らの部屋を訪問しないといけない。
みたいな。
イメージでしかないんだけど。
twitterにはmixiでいうコミュニティは存在しない。
その代わり、なんとなくグループみたいなのは
形成されているみたい。
他人のつぶやきの様子から
それぞれの人間関係のグループが垣間見える。
そういうのをクラスターと呼ぶらしい。
この間、直接の知人のいないクラスターで
毎週土日にフリスビーをやっているところがあって
なんでか、参加してみた。
駒沢公園でフリスビーを投げてみた。
知らない人々とフリスビーを投げ合って
twitterのidを交換しあった。
友人は「21世紀型リア充だ」と言っていた。
何か不思議で新鮮な体験だった。
フリスビーみたいなスポーツは
人々と共有しやすいのかなあ。
音楽はそうはいかないな
大きな音は周囲に迷惑をかける可能性があるから
集まって大きな音を出すには
いろいろと配慮や手配が必要だ。
すると、どうしても
手配する側(主催)-招かれる側(客)という関係が
できあがってしまい、
主催の負担は大きくなる。
また、騒音を考えるとたいてい屋内になるから
スペースやらの関係でどうしても
閉じた人間関係を作りやすくなる気がする。
フリスビーみたいなスポーツというのは
オープンな方向に向きやすいものである気がする。
音楽は何をやるにも
送る側と受け取る側に分かれる必要があって、
また、場所を制限するので
最終的にそれは
音楽をよりパーソナルなものにする要因と
なっている気がするけど
パーソナルというのは閉じた関係の究極だよなあ。
この現代の音楽が持つ構造的傾向、
というのは面白いな。
そしてこの記事はとりとめがないな
友人が結婚について、こんなことを言っていた。
「男女の不公平を是正する為に結婚がある」
ほほう。それははじめて聞いた。
で、帰って考えてみた。
多分、結婚という制度はその時代その時代で
都度その社会的意義が
移り変わってきた制度なのだろうなと。
それで現代になって解釈され直した社会的意義の一つが
「男女間の不公平の是正」
なのかもしれない。
しかしいったい何が不公平なんだろう?
そして不公平があったとしたら、
結婚制度はどういうカラクリで
それを是正してるんだろう?
まずは不公平について考えてみる。
もし男女間で違いがないのなら、
不公平は起こりえないのだから
男女間での何らかの違いが
不公平を引き起こしていることは
間違いないだろうと思う。
それも男女それぞれの人生での違いだろう。
では何が違うのか。
まず第一に生物的に違うなと。
歴史的背景や社会的な違いは
僕の処理能力では
手に追えないのでひとまずおいておく。
というわけで生物として男女は違う。
どのように違うのかと言うと
僕の知っている範囲では
「子供を生む能力」の有無があるわけだ。たいていは。
ここまでをまとめると
「男女では子供を生む能力の有無に違いがあり
それが不公平を生み出すので
是正する為に結婚という制度がある。」
ってことになる。
正しいかわからないけど。
では、「子供を生む能力」が
どんな不公平を作り出すのか。
単純に考えて
女性は妊娠するので
その間は通常の社会生活を送ることができなくなるなあ。
一方、男性は女性を妊娠させても
通常の社会生活を送ることは可能だ。
また、女性の場合妊娠すると
日本では
出産か堕胎かを選択できるが
どちらにしろ身体に負担がかかる。
一方、男性は身体への負担は全くないし、
女性が妊娠している間に
逃げることも可能だ。
さらに考える
女性が生んだ後はどうだろう。
たいていは誰かが子供を育てることになるが
それは別に母親でなくてもよいし
もちろん父親でなくてもよい
つまり、子育てに関しては生物的には違いはない。
つまり男女間の生物的な面による違いと
それが引き起こす不公平は
「妊娠出産堕胎による身体的な負担」
に集約される気がする。
そしてこの不公平はまず生物的には解消不可能だ。
従ってこの不公平の解消は
生物的じゃないもので
代替的に埋め合わせることによってのみ可能、
と考えることができるわけだ。
その為の結婚制度?
と結論するのは早くて
まあ、もう少し考えてみる。
あ、その前に一個気付いた。
妊娠というのは
女性にとっていわば
「怪我を負う」
のと同じなのかなと。
身体への負担が大きいし
出産にせよ堕胎にせよ
病院に行って
何かしら手術的なものもしないといけないし。
そう考えると
意図しない怪我(妊娠)を負わされたので損害賠償
とか
セックスは女性にとって
怪我のリスクがある行為で
怪我を予防したり
怪我が現実のものとなった場合に備えて
何か対策をあらかじめ講じておく。
というのは理にかなってて納得だ。
ふう。
疲れたのでこの先はまた今度考える。。
では。
シシドヒナタ
タイ料理屋での昼食時、相席になった男二人の会話。
一人の男が仕事で東南アジアに行ったときのエピソードを語っていた。
「俺、それくらい辛いの大丈夫。」と辛さに対する耐久性を主張していた。
3回くらい別々のエピソードを語っていは
「それくらい辛いの大丈夫。」と豪語していた。
相手の男はそのたびに「すごいっすねえ。」と返していた。
「~で、
日本人がいるってことを忘れられてて、
料理が容赦なかったわけ。
でも全然問題なかったし、
俺、それくらい辛いの大丈夫。」
「すごいっすねえ」
彼の過去にいったい何が。
辛さについての彼の心の傷を感じる
CDがとても売れていないらしい。
もし音楽が儲からなくなるのなら、
音楽業界はいろいろ厳しくなるのだろう。
ラジオとかでも
音楽業界の人々がいろいろと悲観した話を語っている。
みんなそう悲観して音楽をやる人が
少なくなっていくなら
あとはもう続けていきさえすれば
なんとかやっていけそうだって
ふとそんな気が僕はしてきた。
だから僕はあえて言いたい。
音楽は儲かりませんよ。これからは特に。
もし年々音楽が儲からなくなるのなら
今まで予算をたくさん使って
音楽を作っていた人々の予算は少なくなるのだから、
細々とやっている僕のような人々が
対等に戦える余地が出てくるというものだ。
対等に戦える、というのは
人々に聴いてもらえるチャンスが
相対的に増える、という意味。
絶対的には増えないかもしれない。
メジャーな人々と一緒になって
悲観になる必要は僕には全く必要ないのかもしれない。
僕がやりたいのは
一人でもたくさん聞いてもらって
僕の音楽を気に入ってくれる人々に
音楽を届けたい、ということなのだ。
そして、これが僕の音楽。
僕はまだ戦える。
・足の裏に髪の毛が刺さっていた。8mmくらい。びっくりした。
抜くとき、ビリッとした。
・朝カレーした
・短くなった自分の髪の毛に自分の存在がなじんできた
病んでいる人が好みというよりは、人の病んでる部分が好み
トランクス裾の部分のよれよれに安心感を持つ女です
通報をしないと差すぞ抜き打ちの検査を装い銀行襲う
合コンを月から木にするか金土にするかで気合いを計る
それはもう優しくてもう優しくて彼は優しくて死んでしまいました
最近文章書いてないなあ
戸袋に手を引き込まれないように通う電車の戸袋に手を