雑文

子どもの人形遊びとコミュニケーションの不可能性についての無理がある思いつき

女性で子どもの頃、
人形遊びなどしていた人は多いと思う。
それと。
女性は一般に男性と比べて、
コミュニケーション能力が高いと言われている。

この2つを無理矢理くっつけると次の結論が出てくる。

「コミュニケーション能力は
相手が人間じゃなくても磨くことができる。」

いやー。我ながら無理矢理だ。

で、このまま暴力的に考え続けてみる。

「コミュニケーション能力は
相手が人間じゃなくても磨くことができる。」

これは
相手が生き物でなくてもいい。
相手が人形という、非生物であってもいい。

自分の子どもの頃を思い出すと
自分の大事にしている人形には、
人間でもなく
かといって動物でもないのだけど
何かまさに世界に唯一の存在というか
友人というか
守ってくれるというか
そんな人格のある物体のようなものだった。

でも、現実の世界は
彼らは動きもしないし、
しゃべりもしない。

でも、子どもの頃の僕は
彼らを
動くし、しゃべる、存在と見なしていた。

で、さきほどの無理矢理な結論と考え合わせると

「コミュニケーション能力は
自分がコミュニケーション可能と思い込んだ相手さえいれば
磨くことができる」

という結論になる。

コミュニケーションするには
コミュニケーション可能と自分が思い込むことが
十分条件となる

と言っているのと同じだ。

人間は誰とでも死者とも物体ともコミュニケーションできる

と言っているのと同じだ。

だって、女子は人形相手にコミュニケーションの練習をしているんだぜ?

そんな馬鹿な!と思うだろう?
ええ。僕もそう思います。

これは間違いだと思う。

しかし、僕たちのコミュニケーションに関して
重要な示唆をしているように思ったりする。

コミュニケーションというものの性質の一つの。

断絶が前提になっているということの。

コミュニケーションというのは
コミュニケーションの不可能性が
前提になっているということの。

いつの間にか僕のサイトは「擬似同期」サイトだった

考えてみたら僕のホームページは、
言わば自前のニコニコ動画(=疑似同期)みたいなものだと気付いた。

・「擬似同期」についての抜粋記事
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0711/23/news005_2.html

・元記事(濱野智史の情報環境研究ノート」)
http://wiredvision.jp/blog/hamano/

なぜかというと、ここの楽曲ページは、
僕のYouTube動画が張り付いているその下に
曲の感想のtwitterのつぶやきが流れているからだ。

現在、表示するつぶやきは僕がお気に入りにしたものが表示されている。
これだと、僕の恣意的な判断が入ってしまい、フェアではないので
後々はタグの検索結果を表示させたいなと思っている。

だから、タグを考えておく必要がある。何にしようか。

#shishidohinata

に決めた。ちょっと長いけど。。。
今後、シシドヒナタの感想をtwitter上でつぶやこうとしている方々は
是非#shishidohinataで!

で、それらが有効に機能するにはどうすればいいだろうか。
有効に機能する、というのはどういうことだろうか

シシドヒナタ的個性論 – 理論編・実践編(メモ)

以下、ツイッターで人の迷惑を顧みず
つぶやきまくったテキスト。
せっかくなのでブログの記事にしてしまう。

「個性というものに関するシシドヒナタの視点、について、書いてみてしまう。聞いてみたい、という人がいたので。。。(実はしゃべりたがり)」

「ええと、個性については、僕も思うところがあります。と。」

「なぜなら、僕はものすごく臆病で、なんとかして「なるべく人に聞かせないで、自分の曲について自信を持ちたい」という都合のいい願望を抱いていたので、作る曲についての理論武装は必須だったのです。」

「僕の結論では、個性とは何か。要するに「個性」という言葉の定義なんですけど、どう考えても「個性」というのは「人と違う性質」という以上の意味を持たない、というのが僕の結論になります。」

「「個性」というのは「人と違うこと」という意味でしかなく、それ以上でもそれ以下でもなく、個性自体に何か特別な価値があるわけでもない」

「では、音楽や芸術の世界で、なぜ個性が重要視されるのか。」

「世の人々はまず大前提として「個性は重要」という公理があって、そのあとすぐに各作品に対して「個性がある、ない」という話に進んでしまう。それは僕にとっては疑問でした。」

「自分では個性が特にないし、どのようにすれば個性と人が呼ぶものが手に入るのかわからない僕にとっては個性が何なのか、そしてなぜ個性が重要視されるのか理解するのは死活問題だったと思います。」

「ああ、話がとっちらかってるな」

「いきなり結論に行ってしまうのですけど、個性が重要視されるのは、他人がいるからだ、と僕は思いました。」

「音楽を作る人がもし、過去から未来まで僕一人であればそこに個性という考えの入る余地はない。」

「個性という考えは、他人がいて初めて成り立つ考えだ。当たり前か。」

「で、音楽や芸術、といった分野においては、それは他人との競争というものと関係してくる。」

「つまり、個性という考えは他人と競争することにおいて必要な考えだ。」

「もっというと個性というのは、自分の作品を残すための戦略の一つだ。」

「ものすごく反対する人が多そうだけど、これは真実だと思う。」

「音楽というのは文化というものの一種だ。文化というものは歴史というものを持っていて、歴史というのは時の流れのことだ。」

「時の流れが音楽という分野にどう影響を及ぼすかと言うと、先行する作品は後続する作品に対して影響を及ぼす、っていうふうになる。」

「うわ、わかりにくい」

「つまり、後続する音楽家は先行する作品を聴く中で自分たちの作品を作るので、先行する作品からの影響を必ず受ける、ということだ。」

「したがって、原則として古ければ古いほど音楽は影響力を持つ。」

「そして、似た個性を持つ音楽作品が2つあった時、生き残りやすいのは古い作品のほうだ。」

「なぜなら、後続する作品は「先行する作品○○と似ている」と言われ、結果として先行作品の広告塔になってしまうからだ」

「つまり、音楽の歴史は「先にやったもん勝ち」の歴史であり、したがって個性は生存競争の戦略の一つとみなすことができる、はず。」

「なんかわかりにくい文章のような気がするなあ。」

「というわけで、「個性」とは「人と違うこと」にすぎず、「音楽の歴史の中での生存競争でとても有用な戦略の一つ」というのが僕の結論。」

「今のがシシドヒナタ的個性論の理論編。で、次が実践編。」

「理論編は、個性がなぜ音楽において重要視されるのか。をシシドなりに考えた結果でした(個性崇拝は思考停止よ!というメッセージでもある)。」

「実践編は、じゃあどうやって個性というものを手に入れるのか。これはシシドの人間的特性に合わせたものなので、人によってはあてはまらないかもしれない。」

「あ、理論編に補足すると、僕も音楽を聴くときは個性がどうたらとかなんも考えていない。ただ単に好きか嫌いかです。」

「実践編は話が簡単です。「個性」というのが「人と違う」のであれば、むしろ作る作品が他人と似ているほうがおかしいともいえる。」

「なぜなら、自分と他人は違うのだから。存在している位置からして違う。存在する位置が違えば見える景色が異なっていて、それはもはや同じ経験をしているとは言えないはずだ。だから、僕と他人は全く違う。」

「聞いてきた音楽が全く同じであることも考えにくい。音楽のセンスがそれまで聞いてきた音楽に依存するなら、僕は他人とは聞いてきた音楽が曲目、再生回数ともに全く異なるのだからセンスもことなるのは当然だ。」

「僕の音楽センスは他人と異なる。完全に。」

「曲作りというものが、出てきた音に対する取捨選択の連続であるとするなら、そしてその取捨選択が自身の音楽のセンスに依存するのなら、できあがる音楽は他人と異なるセンスによって作られた「個性のある」作品になるはずだ」

「また、取捨選択される音を出す手段が例えば、ギターを弾いて歌ってみる、であるならば、それはその人の身体に依存することになる。」

「身体はどう考えてもその人固有のものだ。その人固有の癖を持つ身体から出された音はどうにもこうにも固有になってしまう。はず。」

「したがって、曲作りにおいては音を出す過程も、出てきた音を取捨選択する過程もその人固有の過程にならざるを得ない。」

「というわけで、実践編の結論は「好きにやればいい」です。どうやったって個性が反映するのだから。好きなものを選んで作れば個性的になるはず。」

「ただし。」

「それには自分自身がリスナーとして、音の好き嫌いを判断する必要があると思う。」

「あーうまく言えてない気がする」

「つまり、例えば演奏して好きな音と聞いて好きな音は違うと思う。」

「いっくら演奏してて、この感じ好きだわーとか思っていても、それは演奏者として快感なだけかもしれない」

「最終的に届けるべきは、リスナーとしての自分が「いい曲」と思えることが重要なのだから、「演奏が楽しい」とは区別する必要がある。」

「ああ。もっと実績があって語るならもう少し箔がつくのになあ」

「ええと、いい加減連投は人々の迷惑なのでそろそろおいとまします。」

「最後に。だから、個性は音楽の歴史では生存競争に勝つ戦略であり、自身の身体や記憶に従って作られた楽曲はおのずと個性的である。だから、僕は常に自分がもっとも厳しいリスナーとして「僕自身が買うかどうか」を基準に曲を作りたい所存であります。と。」

「長文連投失礼しました。。。」

こうして見てみると
僕は本当に文章がヘタクソだなあ。
文体も統一されていないじゃないか。

もっとうまく言えるはず。
精進せねば。

twitterでの僕の周りの現象の秘密を読み解く

例えば。

・okadadada さんがUstreamでのDJで瞬間視聴者数世界一になった
・まつきあゆむさんの一億年レコードが人々にtwitter上の口コミで広がった
・フリスビーをただ投げ合う集まり「wanage」が大盛況

僕も年甲斐もなく参加したり、はしゃいだりしてしまった。
なぜそんなことが起こったのか。
誰かが僕にこう言った。

「シシドさんはこういう『連帯』みたいなのには
唾吐くタイプじゃないですか。なぜtwitterに限って。」

僕が本当に「連帯」みたいなものに対して唾を吐くかどうかは
置いておいて。ふふふ。

なぜ僕は、はしゃいでしまったのか。
なぜ明け方までokadadada さんのDJに付き合ってしまったのか。

頭のいい高校生がこんなことを言っていた。

・Twitterとはなんだったのか——「コンテンツ」としての日本Twitterユーザー(前編) – アーキテクチャ編
http://d.hatena.ne.jp/gotto-s/20091129/1259499363
・Twitterとはなんだったのか——「コンテンツ」としての日本Twitterユーザー(後編) – コンテンツ編
http://d.hatena.ne.jp/gotto-s/20091201/1259675416

すごいなこの若者。
つまりだ、「twitterは人がコンテンツ」と言っている。

僕の印象では、
twitterは擬似的な広場みたいなものだ。

近くの人とは話声を聞くことができて
耳を澄ましたり、聞きに行けば、
遠くの人の話も聞くことができる。
嫌なことを言う人に対してはみんな無視したり
遠ざかったりすることができる。

と、広場あるいはパーティ会場での会話が
バーチャルに表現されている。
と、僕は思う。
また、表現手段が140文字のテキストのみということで
人々は自分を容易には着飾ることができない(ホームページやブログは着飾ることができる)
それによって、人となりが否応なくあぶりだされる一面もあるように思う。

というわけで、僕も
「twitterは人がコンテンツ」
には納得した。なるほどー。

その上で、僕は思う。
人々はtwitter上でなぜ盛り上がってしまったりするのか。
先に、僕の結論から言うと。

「人は珍しいことに居合わせると、興奮する」

歩いてて火事に遭遇すれば、人は興奮する。
偶然、芸能人と話す機会があると、人は無駄に興奮する。
祭りに出掛かると、なぜかわくわくする。
結局は「非日常」とか「ハレ」に興奮するってだけなのだけど、
twitterは非日常がそこかしこで頻発しているのだと思う。

なぜ、twitterでは非日常がそこかしこで頻発するのか。

答えは単純だ。人との接点が現実社会と比べて
格段に多いからだ。

twitterでは、人との接点は「フォロー」
「タイムライン(TL)」によって表現されている。

通常の現実社会では、人との付き合いは、
集まって会ってもせいぜい十数人だし、
電話やメールなら1対1だ。

しかし、twitterではフォローした人達のつぶやきが
TL上に一覧で表示される。
たいていの人のフォロー数は数十~数百だろう。
接点が格段に多い。

140文字と短く制限されているため、
画面上に二十数個ものテキストが一覧される。
それだけテキストがあれば、たいていの人は
丁寧に読まず、読み飛ばすだろう。
読み飛ばして、
何十もの呟きをあっというまに眺め終わる。
すると、その中の一つくらいは、
面白いことを言っていたり、実況していたりするのだ。

一人一人のツイットは、
たいてい内容が薄い。
全てのテキストが面白い人などそうそういない。
しかし、数十~数百もの人をフォローして
何十ものツイットを眺めていれば、
何かに出会えるのだ

そして、中には
ほとんどのテキストが面白かったり
興味深かったりする人がいて、
そういう人は何万もの人にフォローされているのだ。

これが、盛り上がってしまう秘密だと思う。
僕は連帯が好きなのではなく
ただ、非日常に遭遇したことに
気持ちが高揚してしまったのだと思う。

僕はこう分析したのだけど
もう実は誰かが指摘しているのかな。

もし、本当に、「twitterは非日常が頻発するから面白い」のであれば、
twitterの面白さはある意味でとても危うい。

なぜなら、誰でも知っているとおり、
非日常は、普段起こらないから非日常なのだ。
あまりにも非日常的なものが頻発するなら
それらはもはや非日常としての輝きは色あせてしまうだろう。

つまり、今のところtwitterは
非日常と日常のバランスがいい感じなのだと思う。
人によっては「もう飽きた」と
twitterでの非日常が日常になってしまった人もいるようだ。

もし、僕やまつきあゆむさんのように
音楽をデータで直売する人がたくさん増えたら。
誰もがUstreamで音楽を放送したら。
僕らはそれらを日常の一部と見なし、
読み飛ばすべき情報として処理してしまうようになるだろう。

だから、僕は直売することを急ぎ、
レーベルを説得し、実現させた面がある。
全曲揃ってから直売するのではもう遅いのだ。僕の場合は。

モテキを買う男と車が好きな男

今日は豚の三段バラを食わせてくれる店で夕食を食べた
上野の水商売系のお店が軒を連ねる界隈にあるその店には
やっぱり、「俺は男だぜ」って感じの男たちと
「私女だし」って感じの女たち、
つまり、男っぽさ女っぽさそれぞれともに100%のやつらが
お客として多かった。

ああ、あの股の開いた座り方は「男」だなあとか
たばこの吸い方も「男」だなあとか
女のほうに関してもまあ似たような感じに思っていたわけだ。

そこで満腹になった後、
近くのツタヤで「モテキ」の3巻を買い、
帰宅した。

途中、とてもかっこよさげな、
つまり男って感じな車の、きれいにワックスが掛けられたやつが
通ってって、

ああ、男っぽい人が好きそうな車だなあ
うーん、ほんと興味ないなあ

と思って眺めた。
車っていうのはなんでああ男性性を誇示した感じなんだろうか
権力を誇示した感じというかなんというか。

これでも昔は戦隊モノや
何やらを愛好するごく一般的な男の子であったはずなのに
どこでどうなって、
「モテキ」なんかを喜び勇んで買ってしまうような男に
育ってしまったのだろうか

今では、男っぽいものを尊ぶ人々が
アホみたく見えるくらいにまで
センスが歪んでしまっている。

だから、なんというわけでもなく
なんのオチもない話なんだけど。

モテキは少女漫画っぽいな。
男性に対しても女性に対しても
彼らの心の声をネチネチと
描写し続ける点で。

やっぱ作者が女性だからか。

モテキの主人公はリアル碇君だなあ。
とも思った。

ああ、とりとりめがない。
そんな夜。

2010のテーマ

今年のシシドヒナタの音楽活動のテーマは、
「いかにシシドの音楽を人々の日常に潜ませるか」
だ。僕はもっとたくさんの人々に
自分の音楽を聴いてほしいと思う。
その為に何をすればいいのかを
試行錯誤したい。
その為に何をするか。
音楽というのは、
まずは聴いてもらわないと始まらない。
だから、
シシドヒナタの音楽をふと耳にする機会を
今年は増やしたい。
あらかじめ何かによって
シシドヒナタに興味を持ってくれて
曲を探してくれるでもいいし、
全くシシドヒナタなんて知らないで
偶然、その音楽を聴くのでもいい。
そういう機会を増やす為にどうするか。
僕は思っているのは
何らかの行為を
「リピート」することが重要だということだ。
何を「リピート」するかは
まだちゃんと決まっていないけど。
ブログをだいたい週1で更新しているのと
同じように、何かを繰り返し行う。
まずはそこからなのかなと思う。
(何を今更と思うかもしれないけど)

今年の抱負

今年の抱負は
「自分を安売りする」
にした。
ほっとくと
僕は自分を大事にしすぎてしまう
傾向があるので。
もう期限切れということで。

漂白竜

今日はこんな夢を見た。
海峡を渡る橋の袂に
大きな岩場があって、
ある潮が引けた朝、
そこに大きくて
白く漂白された竜のオブジェが
そこに存在していた

「『某仏教系利益団体を母体とする。。。

「『某仏教系利益団体を母体とする政治団体K党の会長、
I田氏が逝去したのきっかけに
団体内では後継者争いが激化、
その中のある派閥が団体員の増員を目論み、
幅広い年齢層を持ち、
知名度の抜群の小説家M上H樹氏を取り込もうと
表から裏から様々な方法で取り込み寸前だったが、
最終的に
M上氏が女性のレイプを題材した小説を発表。
読者から猛烈な非難を受ける。
その結果利益団体のその派閥は
利用価値がなくなったと手を引いた。
M上氏は自身のブランドやキャリアを犠牲にして
団体に屈するのをなんとか防いだのであった。。。』
という話を雑誌かネットかで読んで、
『あの作品にはそんな裏話があったのか、、、』
と衝撃を受けた」
という夢を見た。マジで。

「見るからに草食系男子って感じだね。」いえ、むっつりです。

「見るからに草食系男子って感じだね。」
シシド:いえ、むっつりです。
「むっつりなんて最高じゃん。」
シシド:!!
お褒めいただきました。
むっつりと言ってほめてもらえる時代が来るなんて
思ってもいませんでした。
これは草食系男子のおかげなんでしょうか。
むっつりが日の目を浴びる時が来たのかもしれません。
全国のむっつりの皆さん
今こそ宣言するときです。
僕、私は、むっつりだと。
何が草食系男子なのかというのは
諸説があるかと思いますが
ひとまず
草食系男子=性的に活発でない男子
とした場合、草食系男子というジャンルが
認知されてしまったことで、
世の男性は(女性も含むのかな)
性的なことに対する態度を明確にする必要が
出てきてしまったのかななどと考えたりしてます。
「あなたは、草食系男子ですか?」
「いいえ、私は肉食系男子です。」
「あなたは、草食系男子ですか?」
「いいえ、私はむっつりです。」
むっつりと言えども、
ニーズがあるところにはあるのかもしれません。
ロングテール的に。
今に「むっつり専」みたいな言葉とか出てきて
いい時代がやってくる。いやないな。
世のむっつりさんには
ぜひこの機会に意中の異性に対して
ほんとはむっつりなんです。と宣言してみてください。
いいことがあるかもしれません。
(宣言によって起こる結末については
シシドは責任を負いかねます)
でもまあ考えてみたら
むっつりって自分で言ったら
もう全然むっつりじゃないですね。
シシドヒナタ