雑文

同性を代表して意見を言うこと(ほぼ日モテキ座談会読んだ)

ほぼ日でやられている、
モテキの作者久保ミツロウさんを
囲んだ座談会を読んだ。

http://www.1101.com/moteki/

面白かった、気がする。

僕が抱いた感想は、
「結構、簡単に同性を代表して意見を言っているなあ」
というものだ。
(ごめんなさいまたどうでもいい感想で)

どういうことかというと、
男性というのはこういうものなんですよ
というふうな形で
自分は男性で、だから男性のことはわかっている
というスタンスのことを言ってます。

僕はどうもそのように
「自分が男性であることによって
男性を代表した意見を言う」
ということに抵抗を感じてしまうようだ。

多分、それは
男性だからってみんな同じなわけじゃない
という思いが強いのだと思う。

もっとも、
悪く見れば、僕は未だに特別でありたいという
願望を持っているだけなのかもしれない

【長文】映画「ぼくとエリ」を見た。

映画「ぼくとエリ」を見た。

感情移入することはなかったけど、面白かった、と言えると思う。
「言えると思う」だなんて曖昧な書き方をしてしまうのは
自分の中でどう消化していいか分からないからだ。

まずは、どういう映画なのかというと。
12歳の少年オスカーという主人公がいて、でもこの子はいじめられっ子で気が弱い。場所はスウェーデンだったかな。彼の住む団地に不思議な少女エリが引っ越してくる。夜にしか会えない。
というのも実は少女は吸血鬼なのだ。彼女は彼の街で人を殺して血を吸うためにやってきた。で、オスカーへのいじめを巡るすったもんだなども絡んで話は進んでいくと。

公式のプログラム700円でのキャッチコピーや
解説では「怖ろしくも、哀しく、美しい12歳の初恋」となっている。
恋愛ものってことになっているけど、
実態はそうではなかった。

以下、ネタバレな感想になるので
もし、これからこの映画を見ようと思っている方はご注意を。

あと、普段僕は映画をほとんど見ず、
なので映画リテラシーが著しく欠損している。
従って、一般の平均的に映画を見ている人や
たくさん映画を見ている人からすると
的外れな感想かもしれない。

僕が映画を見ていて思ったのは。

「弱肉強食」

という四字熟語だった。
あまりにロマンチックじゃないし、身も蓋もないなと思う。
でもこれに沿って感想を書いてみる。
今回の映画では、
弱=人間で
強=吸血鬼だ。
つまり、吸血鬼は人間の捕食者ということだ。
しかし、吸血鬼はちょっと不思議な形の捕食者ではある。
まず、太陽の光を浴びることができないし、血を吸う(人を殺す)必要がある。
したがって吸血鬼一人では生活することが非常に困難だ。
最終的な結論としては、吸血鬼は人間の介助なしには生きていくことが難しい。
その点では弱者でもある。
一方、吸血鬼の身体能力は人間をはるかに凌駕するもので
彼女と相対する人間は常にその身体を無防備にさらすことになる。

整理すると
吸血鬼は、人間の介助を必要とする弱者であり
同時に人間を主食とする捕食者でもある。

映画はロマンチックなキャッチコピーとは相反して
非常に暴力的な描写が生々しく、残酷だ。
そのせいか、エリがオスカーと一緒にいる時は
徐々に捕食者と被捕食者の緊張感が漂うことになる。
しかし、オスカーは圧倒的な強者に、
最後には完全に心を奪われる。

僕が一番緊張したのは、
エリが吸血鬼だと判明した後、
血まみれの口のエリとオスカーが初めてキスをする場面だ。
エリの口はオスカーの首筋のごく近くにある。
エリはオスカーを襲おうと思えばいつでも襲える。
オスカーは圧倒的な命の危険の前に
自ら目をつぶり、無防備にその身をさらし続けた。

僕は圧倒的な理不尽さを前にそれを受け入れることができるだろうかと自問した。

映画の序盤、エリには老人の介助者がいる。
彼もオスカーのようにエリを好きになり
何十年も介助し続けたのだろう。
(酒場の場面で周りの年寄りが皆ビールをぐびぐび飲んでいる傍らで一人牛乳を飲んでいた)
序盤の殺人1件はこの老人によるものだ。
老人は町に来てからの2件目の殺人に失敗したとき、
自らをエリの食べ物として差し出した。

僕は、エリの圧倒的な強者ぶりや
介助なしには生きられない弱者ぶりのアンバランスさと、
エリに対する老人の異常なほどの献身や
オスカーのキスの時の受け入れる様子を
つなげて何かを思った。

何を思ったかは自分でもわからない。
でも何か思った気がする。
宗教に関する何かだったかもしれない。

ひとつ、個人的に気になるのは
エリが放ったオスカーに対するセリフ。
「少しでもいいから、私を理解して」
とオスカーに馬乗りになって迫った時。
彼女の寄生捕食者としての手管なのだと言えばそうなのだけど
理解する、ってどういうことなんだろう
と、思った。
映画に対するいちゃもんではなく。
ここ数年、「好きな人を理解する」というのは
いったいどういうことを言っているのだろうか
と考え続けている。

2086年7月21日の天声人語

2086年7月21日の天声人語
◆今日は、日本省にとって感慨深い日だ。それというのも、平成天皇のご逝去された日のデータが削除された日だからだ。
◆2043年、指数関数的に増大するライフログデータのデバイス圧迫に歯止めをかける為、「生活記録等電子情報の保存に関する法律」(通称:電子情報保存法)が施行された。そして2063年に最初の電子データが削除され、誰もがいつかは訪れることを考えていた日が、とうとうやってきてしまったのだ。そう、2043年に我々は「忘れる」ことを決断したのだ。
◆今回削除されたデータは日本省民の心情を配慮し、削除データのURIが公開されている。ちょうど一週間前、平成天皇ご自身の肉声データの一部が削除された際の騒ぎの大きさにより、中央当局が取った措置だ。
◆削除される情報は資料として有用でないライフログデータばかりとはいえ、当時の情報の96%(バイト比)にも上る。「ご逝去された当時の世間の雰囲気や省民一人一人の心情など、ログ全体を通して初めてわかるリアルな情報が失われる」(東京大学 情報哲学科教授 劉絵見(りゅうえみーる)さん)との指摘もある。
◆もはや当時を知る人々も少なくなってきた中、我々省民は再度、平成天皇の行った英断を思い出し、特別独立省としての自立心を確認すべきなのではないだろうか。

コメントが2件あります

・I cant understand this old language. tell me what you write ?

・我们报告

名言扱いされたツイート。

もし、君が歩く道に、誰も行く手を遮るものがおらず、遠くまでよく見渡せたなら、それはつまり、君が行く手を遮っているということだ。

スコップがないので穴は掘れない

「才能」という言葉を信じていない。

「才能」という言葉は人の能力というものについて誤解を与えやすい言葉である気がする。
「能力」という言葉は、現実に今、発揮可能な力のことだ。
「彼は作曲する能力がある」と言った場合、
彼は今、作曲することができる、ということだ。

しかし、「才能」は違う。
「彼は作曲の才能がある」と言った場合、
必ずしも今、作曲できることを意味しない。
将来、作曲することができるかもしれない、ということを含んでいる。

才能という言葉の使われ方には
いくつかパターンがあるように思う。

・「自分に才能があるかわからない」という使い方
この使い方の場合、
彼は、
「将来の成功が保障されているか保障されていないか、わからない」
と言っている。
僕の考えでは、成功が保障されていることなど存在しない。
したがって、そのように悩むのは無駄といえる。
つまり、彼は単にまだ覚悟がないと思われる。
自分の人生を何に浪費するかに対して。

・「僕には才能がある」という使い方
これは、「将来的に自分が成功する、と信じている」
と言っていることになる。
さきほど言ったように必ずしも現在の能力は問われていない。
したがって、その自信に根拠がない場合がある。
しかし、それ自体は別に悪いことではないと思う。
根拠のない自信はないよりあったほうがいいと思う。

・「自分には才能がなかった」という使い方
これは何かを諦めるとき、すっぱり足を洗うための、
勢いをつけるための言葉だ。
「世の中には「才能」という、
自分の努力ではどうにもならないものがあって
それが僕には与えられていなかった」
と言っている。
はじめから、成功に必須のものとして
「才能」というものがあって、
それが自分には与えられていないから
諦めることが合理的だ、というふうに彼は考えている。

これらを総合すると、
才能がある、なし、あるかわからない、この3つの使い方において
「成功に必須の何かよくわからないもの」
という意味では共通しているようだ。

「成功に必須の何かよくわからないもの」

というのは、
僕は何か挑戦するに当たって考える必要のないことであるように思う。
だって、よくわからないものは、探りようがないのだから。

人の能力というものをブラックボックスとしてとらえていては、
成長することはできない。
なぜなら、能力を伸ばすには、
適切なトレーニングや準備や環境が必要で、
適切なトレーニングや準備や環境を手に入れるには、
その能力について、それがなんなのか考えることによってのみ
手に入れることができるからだ。

成長がなければ、まず成功はない。

また、その能力を手に入れることができないとわかったなら、
自分が手に入れることのできる、あるいはすでに持っている能力を
組み合わせることで代替できるかもしれない。

「大事なのは才能がないと嘆くことではなく
自分が持っている能力をいかに工夫して組み合わせるかなんだ。
君らはわかっていないが。」

高校時代、生徒に大変不人気だった教師が
授業中に言った言葉。
僕も苦手だったが、これだけは覚えていようと思った言葉だ。

スコップがないので穴は掘れないと考えるか
スコップの代わりがどこかにないか探そうと考えるか。

オレ様メソッド

■権威との接触
世に隠れし権威との接触に成功した。
何の権威かと言うと、「オレ様」の権威だ。
おかげでオレ様に関する理解が格段に深まった。

僕はこれまでオレ様について
いったい何を知っていたというのか(いいえ何も知らなかった[反語])
という気持ちだ。

オレ様は女子になんだかんだでとても人気だ。
オレ様好きを公言する女子は多い。

なぜ、オレ様なのか。
なぜ、世の女子はオレ様になびくのか。
とても疑問だったが、あまり深く考えたことはなかった。

しかし世の中にはいろいろな専門領域というのがあって
オレ様についてもそれは例外ではなかった。

。。。くどいな。
前フリはやめて、さっさとしゃべります。

僕は権威にまず、素人の蛮勇をもって
「オレ様とは何なのですか」と
尋ねたのだった。すると

「オレ様」の話は、深いよ?

と権威はニヤリ。
ビールと飲みつつ、スルメかじりつつ
夜は更けていくのであった。。

■オレ様3要素
権威が酔って身の上話を交えて来たため
なかなか難解な講義となったが、
ひとまず、オレ様にはその言動面でオレ様3要素
という特徴があるらしい。

(1)わがままである(えらそうともいう)
(2)お姫様扱いする
(3)「オレが守ってやる」発言

こう3要素に分類することによって
いろいろなことがわかる。
まず、オレ様は(1)わがままだ。

当たり前というツッコミが聴こえる。

そう、オレ様といえば、わがまま、自分勝手、えらそう。
しかしだ。
どうやらこの要素については女子もあまり好きというわけではないようだ。
よほどのドMをのぞいて。
オレ様の代名詞と言われる性質は実は
女子にとっても特に魅力的な訳ではないらしい。

ここで、(2)お姫様扱いが出てくる。
オレ様といると、女子は自分がか弱い女子になったような気分になるという。
これは「僕は君と対等な関係でつきあいたいんだ」なんてのたまっている
お坊ちゃんでは味わえないらしい(滲みるなあ)。
自分がか弱い女子になって
ちょっとしたお姫様扱いをされる。
その時、権威曰く「何か快感物質が女子の脳みそからどばっと出ていると思う」

ここで最後、(3)「オレが守ってやる」発言。
たいていのオレ様はこの発言をするらしい。
か弱い気分の女子としては、これがとても頼れる感じに写るとのこと。

つまり、女子にとってオレ様がいいのは
自分が「女の子」になれるからのようだ。

実はこの女の子気分、オレ様に実に周到に引き出されている。

■オレ様メソッド

この3要素を見た時、あなたが非オレ様な男子なら
「じゃあ、わがままにふるまわないで
お姫様扱いして
『オレが守ってやる』発言すればいいではないか」
と思わなかったろうか?

えー。
思ったことにして、話を進めると、

いやいやそうはうまくはいかないんだなこれが。

女子にか弱い女子である気分にさせるには、
オレ様のやり方の場合
(1)わがままが必要不可欠なのである。。。!(盛り上がってきました自分的に)

このオレ様のやり方を仮に「オレ様メソッド」と呼ぼう。

オレ様メソッドを理解するにもオレ様3要素で考えると
わかりやすい。
オレ様3要素の並びは(1)から(3)に実は時系列になっている。

つまり

女子はオレ様に
(1)邪見に扱われることによって
(2)自分をか弱い女の子と認識し
(3)オレ様が頼りがいがあるように見てしまう。
ということなのだそうだ。
これがオレ様メソッドだ。

権威はもっと踏み込んでこうおっしゃった

「恐怖を感じさせるくらいのオレ様っぷりでも
いや、むしろそのほうが女子は
自分のか弱さを認識するので
怖いだけでもう女子は女の子になれる、
つまり女の子快感物質が分泌されることが十分にあり得る」

まあ、オレ様のオレ様っぷりは
それはそれでいろいろあるようで
中途半端だったり、へたくそだと
ただの勘違いしている人になってしまうようだ。

逆に高度なオレ様は、
一見普通の会話でもそれだけで
女子に十分オレ様っぽさを感じさせ
その結果女子は女の子気分になれる
のだそうだ。

こわい、こわいよ、オレ様!

そのようにして
日々女子はオレ様にときめいていくのだ。

オレ様の権威としては
これは一種の詐欺みたいなものだと、言う。
オレ様がひどい扱いをすることで
女子は自分をか弱く感じ
そこですかさずお姫様扱い及び「オレが守ってやるよ」発言。
うーん。確かに。そう言われてみれば。。。

さらに権威はくだをま、、いや、おっしゃる。
オレ様の「オレが守ってやる」発言のその意味も問題だ。
オレ様にとって守ってやるというのは
何か戦争が起こったり地震が起こったり
とエマージェンシーな出来事があったときのことを言うのだそうだ。
そんな有事の時は「お前を守ってやるよ」なのだそうだ。
有事の時以外はわがまま放題なのだそうだ。
権威は叫ぶ「そんな日は来ねえっつーの」

最後に、権威は言った
「男はみんな多かれ少なかれオレ様だ。。。」と

冷えた煮込みを残して
浅草の夜は更けていくのだった。。。

※この話はフィクションです。登場する人物は実在しません。多分。

子どもの人形遊びとコミュニケーションの不可能性についての無理がある思いつき

女性で子どもの頃、
人形遊びなどしていた人は多いと思う。
それと。
女性は一般に男性と比べて、
コミュニケーション能力が高いと言われている。

この2つを無理矢理くっつけると次の結論が出てくる。

「コミュニケーション能力は
相手が人間じゃなくても磨くことができる。」

いやー。我ながら無理矢理だ。

で、このまま暴力的に考え続けてみる。

「コミュニケーション能力は
相手が人間じゃなくても磨くことができる。」

これは
相手が生き物でなくてもいい。
相手が人形という、非生物であってもいい。

自分の子どもの頃を思い出すと
自分の大事にしている人形には、
人間でもなく
かといって動物でもないのだけど
何かまさに世界に唯一の存在というか
友人というか
守ってくれるというか
そんな人格のある物体のようなものだった。

でも、現実の世界は
彼らは動きもしないし、
しゃべりもしない。

でも、子どもの頃の僕は
彼らを
動くし、しゃべる、存在と見なしていた。

で、さきほどの無理矢理な結論と考え合わせると

「コミュニケーション能力は
自分がコミュニケーション可能と思い込んだ相手さえいれば
磨くことができる」

という結論になる。

コミュニケーションするには
コミュニケーション可能と自分が思い込むことが
十分条件となる

と言っているのと同じだ。

人間は誰とでも死者とも物体ともコミュニケーションできる

と言っているのと同じだ。

だって、女子は人形相手にコミュニケーションの練習をしているんだぜ?

そんな馬鹿な!と思うだろう?
ええ。僕もそう思います。

これは間違いだと思う。

しかし、僕たちのコミュニケーションに関して
重要な示唆をしているように思ったりする。

コミュニケーションというものの性質の一つの。

断絶が前提になっているということの。

コミュニケーションというのは
コミュニケーションの不可能性が
前提になっているということの。

いつの間にか僕のサイトは「擬似同期」サイトだった

考えてみたら僕のホームページは、
言わば自前のニコニコ動画(=疑似同期)みたいなものだと気付いた。

・「擬似同期」についての抜粋記事
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0711/23/news005_2.html

・元記事(濱野智史の情報環境研究ノート」)
http://wiredvision.jp/blog/hamano/

なぜかというと、ここの楽曲ページは、
僕のYouTube動画が張り付いているその下に
曲の感想のtwitterのつぶやきが流れているからだ。

現在、表示するつぶやきは僕がお気に入りにしたものが表示されている。
これだと、僕の恣意的な判断が入ってしまい、フェアではないので
後々はタグの検索結果を表示させたいなと思っている。

だから、タグを考えておく必要がある。何にしようか。

#shishidohinata

に決めた。ちょっと長いけど。。。
今後、シシドヒナタの感想をtwitter上でつぶやこうとしている方々は
是非#shishidohinataで!

で、それらが有効に機能するにはどうすればいいだろうか。
有効に機能する、というのはどういうことだろうか

シシドヒナタ的個性論 – 理論編・実践編(メモ)

以下、ツイッターで人の迷惑を顧みず
つぶやきまくったテキスト。
せっかくなのでブログの記事にしてしまう。

「個性というものに関するシシドヒナタの視点、について、書いてみてしまう。聞いてみたい、という人がいたので。。。(実はしゃべりたがり)」

「ええと、個性については、僕も思うところがあります。と。」

「なぜなら、僕はものすごく臆病で、なんとかして「なるべく人に聞かせないで、自分の曲について自信を持ちたい」という都合のいい願望を抱いていたので、作る曲についての理論武装は必須だったのです。」

「僕の結論では、個性とは何か。要するに「個性」という言葉の定義なんですけど、どう考えても「個性」というのは「人と違う性質」という以上の意味を持たない、というのが僕の結論になります。」

「「個性」というのは「人と違うこと」という意味でしかなく、それ以上でもそれ以下でもなく、個性自体に何か特別な価値があるわけでもない」

「では、音楽や芸術の世界で、なぜ個性が重要視されるのか。」

「世の人々はまず大前提として「個性は重要」という公理があって、そのあとすぐに各作品に対して「個性がある、ない」という話に進んでしまう。それは僕にとっては疑問でした。」

「自分では個性が特にないし、どのようにすれば個性と人が呼ぶものが手に入るのかわからない僕にとっては個性が何なのか、そしてなぜ個性が重要視されるのか理解するのは死活問題だったと思います。」

「ああ、話がとっちらかってるな」

「いきなり結論に行ってしまうのですけど、個性が重要視されるのは、他人がいるからだ、と僕は思いました。」

「音楽を作る人がもし、過去から未来まで僕一人であればそこに個性という考えの入る余地はない。」

「個性という考えは、他人がいて初めて成り立つ考えだ。当たり前か。」

「で、音楽や芸術、といった分野においては、それは他人との競争というものと関係してくる。」

「つまり、個性という考えは他人と競争することにおいて必要な考えだ。」

「もっというと個性というのは、自分の作品を残すための戦略の一つだ。」

「ものすごく反対する人が多そうだけど、これは真実だと思う。」

「音楽というのは文化というものの一種だ。文化というものは歴史というものを持っていて、歴史というのは時の流れのことだ。」

「時の流れが音楽という分野にどう影響を及ぼすかと言うと、先行する作品は後続する作品に対して影響を及ぼす、っていうふうになる。」

「うわ、わかりにくい」

「つまり、後続する音楽家は先行する作品を聴く中で自分たちの作品を作るので、先行する作品からの影響を必ず受ける、ということだ。」

「したがって、原則として古ければ古いほど音楽は影響力を持つ。」

「そして、似た個性を持つ音楽作品が2つあった時、生き残りやすいのは古い作品のほうだ。」

「なぜなら、後続する作品は「先行する作品○○と似ている」と言われ、結果として先行作品の広告塔になってしまうからだ」

「つまり、音楽の歴史は「先にやったもん勝ち」の歴史であり、したがって個性は生存競争の戦略の一つとみなすことができる、はず。」

「なんかわかりにくい文章のような気がするなあ。」

「というわけで、「個性」とは「人と違うこと」にすぎず、「音楽の歴史の中での生存競争でとても有用な戦略の一つ」というのが僕の結論。」

「今のがシシドヒナタ的個性論の理論編。で、次が実践編。」

「理論編は、個性がなぜ音楽において重要視されるのか。をシシドなりに考えた結果でした(個性崇拝は思考停止よ!というメッセージでもある)。」

「実践編は、じゃあどうやって個性というものを手に入れるのか。これはシシドの人間的特性に合わせたものなので、人によってはあてはまらないかもしれない。」

「あ、理論編に補足すると、僕も音楽を聴くときは個性がどうたらとかなんも考えていない。ただ単に好きか嫌いかです。」

「実践編は話が簡単です。「個性」というのが「人と違う」のであれば、むしろ作る作品が他人と似ているほうがおかしいともいえる。」

「なぜなら、自分と他人は違うのだから。存在している位置からして違う。存在する位置が違えば見える景色が異なっていて、それはもはや同じ経験をしているとは言えないはずだ。だから、僕と他人は全く違う。」

「聞いてきた音楽が全く同じであることも考えにくい。音楽のセンスがそれまで聞いてきた音楽に依存するなら、僕は他人とは聞いてきた音楽が曲目、再生回数ともに全く異なるのだからセンスもことなるのは当然だ。」

「僕の音楽センスは他人と異なる。完全に。」

「曲作りというものが、出てきた音に対する取捨選択の連続であるとするなら、そしてその取捨選択が自身の音楽のセンスに依存するのなら、できあがる音楽は他人と異なるセンスによって作られた「個性のある」作品になるはずだ」

「また、取捨選択される音を出す手段が例えば、ギターを弾いて歌ってみる、であるならば、それはその人の身体に依存することになる。」

「身体はどう考えてもその人固有のものだ。その人固有の癖を持つ身体から出された音はどうにもこうにも固有になってしまう。はず。」

「したがって、曲作りにおいては音を出す過程も、出てきた音を取捨選択する過程もその人固有の過程にならざるを得ない。」

「というわけで、実践編の結論は「好きにやればいい」です。どうやったって個性が反映するのだから。好きなものを選んで作れば個性的になるはず。」

「ただし。」

「それには自分自身がリスナーとして、音の好き嫌いを判断する必要があると思う。」

「あーうまく言えてない気がする」

「つまり、例えば演奏して好きな音と聞いて好きな音は違うと思う。」

「いっくら演奏してて、この感じ好きだわーとか思っていても、それは演奏者として快感なだけかもしれない」

「最終的に届けるべきは、リスナーとしての自分が「いい曲」と思えることが重要なのだから、「演奏が楽しい」とは区別する必要がある。」

「ああ。もっと実績があって語るならもう少し箔がつくのになあ」

「ええと、いい加減連投は人々の迷惑なのでそろそろおいとまします。」

「最後に。だから、個性は音楽の歴史では生存競争に勝つ戦略であり、自身の身体や記憶に従って作られた楽曲はおのずと個性的である。だから、僕は常に自分がもっとも厳しいリスナーとして「僕自身が買うかどうか」を基準に曲を作りたい所存であります。と。」

「長文連投失礼しました。。。」

こうして見てみると
僕は本当に文章がヘタクソだなあ。
文体も統一されていないじゃないか。

もっとうまく言えるはず。
精進せねば。

twitterでの僕の周りの現象の秘密を読み解く

例えば。

・okadadada さんがUstreamでのDJで瞬間視聴者数世界一になった
・まつきあゆむさんの一億年レコードが人々にtwitter上の口コミで広がった
・フリスビーをただ投げ合う集まり「wanage」が大盛況

僕も年甲斐もなく参加したり、はしゃいだりしてしまった。
なぜそんなことが起こったのか。
誰かが僕にこう言った。

「シシドさんはこういう『連帯』みたいなのには
唾吐くタイプじゃないですか。なぜtwitterに限って。」

僕が本当に「連帯」みたいなものに対して唾を吐くかどうかは
置いておいて。ふふふ。

なぜ僕は、はしゃいでしまったのか。
なぜ明け方までokadadada さんのDJに付き合ってしまったのか。

頭のいい高校生がこんなことを言っていた。

・Twitterとはなんだったのか——「コンテンツ」としての日本Twitterユーザー(前編) – アーキテクチャ編
http://d.hatena.ne.jp/gotto-s/20091129/1259499363
・Twitterとはなんだったのか——「コンテンツ」としての日本Twitterユーザー(後編) – コンテンツ編
http://d.hatena.ne.jp/gotto-s/20091201/1259675416

すごいなこの若者。
つまりだ、「twitterは人がコンテンツ」と言っている。

僕の印象では、
twitterは擬似的な広場みたいなものだ。

近くの人とは話声を聞くことができて
耳を澄ましたり、聞きに行けば、
遠くの人の話も聞くことができる。
嫌なことを言う人に対してはみんな無視したり
遠ざかったりすることができる。

と、広場あるいはパーティ会場での会話が
バーチャルに表現されている。
と、僕は思う。
また、表現手段が140文字のテキストのみということで
人々は自分を容易には着飾ることができない(ホームページやブログは着飾ることができる)
それによって、人となりが否応なくあぶりだされる一面もあるように思う。

というわけで、僕も
「twitterは人がコンテンツ」
には納得した。なるほどー。

その上で、僕は思う。
人々はtwitter上でなぜ盛り上がってしまったりするのか。
先に、僕の結論から言うと。

「人は珍しいことに居合わせると、興奮する」

歩いてて火事に遭遇すれば、人は興奮する。
偶然、芸能人と話す機会があると、人は無駄に興奮する。
祭りに出掛かると、なぜかわくわくする。
結局は「非日常」とか「ハレ」に興奮するってだけなのだけど、
twitterは非日常がそこかしこで頻発しているのだと思う。

なぜ、twitterでは非日常がそこかしこで頻発するのか。

答えは単純だ。人との接点が現実社会と比べて
格段に多いからだ。

twitterでは、人との接点は「フォロー」
「タイムライン(TL)」によって表現されている。

通常の現実社会では、人との付き合いは、
集まって会ってもせいぜい十数人だし、
電話やメールなら1対1だ。

しかし、twitterではフォローした人達のつぶやきが
TL上に一覧で表示される。
たいていの人のフォロー数は数十~数百だろう。
接点が格段に多い。

140文字と短く制限されているため、
画面上に二十数個ものテキストが一覧される。
それだけテキストがあれば、たいていの人は
丁寧に読まず、読み飛ばすだろう。
読み飛ばして、
何十もの呟きをあっというまに眺め終わる。
すると、その中の一つくらいは、
面白いことを言っていたり、実況していたりするのだ。

一人一人のツイットは、
たいてい内容が薄い。
全てのテキストが面白い人などそうそういない。
しかし、数十~数百もの人をフォローして
何十ものツイットを眺めていれば、
何かに出会えるのだ

そして、中には
ほとんどのテキストが面白かったり
興味深かったりする人がいて、
そういう人は何万もの人にフォローされているのだ。

これが、盛り上がってしまう秘密だと思う。
僕は連帯が好きなのではなく
ただ、非日常に遭遇したことに
気持ちが高揚してしまったのだと思う。

僕はこう分析したのだけど
もう実は誰かが指摘しているのかな。

もし、本当に、「twitterは非日常が頻発するから面白い」のであれば、
twitterの面白さはある意味でとても危うい。

なぜなら、誰でも知っているとおり、
非日常は、普段起こらないから非日常なのだ。
あまりにも非日常的なものが頻発するなら
それらはもはや非日常としての輝きは色あせてしまうだろう。

つまり、今のところtwitterは
非日常と日常のバランスがいい感じなのだと思う。
人によっては「もう飽きた」と
twitterでの非日常が日常になってしまった人もいるようだ。

もし、僕やまつきあゆむさんのように
音楽をデータで直売する人がたくさん増えたら。
誰もがUstreamで音楽を放送したら。
僕らはそれらを日常の一部と見なし、
読み飛ばすべき情報として処理してしまうようになるだろう。

だから、僕は直売することを急ぎ、
レーベルを説得し、実現させた面がある。
全曲揃ってから直売するのではもう遅いのだ。僕の場合は。