雑文

不謹慎で個人的で非社会的な地震の感想

 学生時代などは、あまりにぱっとしなすぎて、いつも非日常を切望していた。いつか大きな緊急事態が起こって、僕の日常をメタメタに破壊してくれないかなと。うだつのあがらない学生がいかにも思いつきそうな凡庸な願いだ。そして例によってうだつのあがらない学生らしく、何も行動に移すことはなかった。

 まあ、おおかたの学生は、非日常を切望するものなのだろうと思う。2000年あたりに学生だった人々は、特にその傾向が強いかもしれない。世紀変わったし、1000年の節目だし、エヴァンゲリオンも放送されたし、オウムサリン事件や阪神大震災も起こったし。

「もし非日常が来たなら」と僕はよく自問自答した。
「僕は「まともな人間」でいられるだろうか。」

 僕は非日常が来たときに、友人を裏切ったり、パニックに陥ったり、デマに踊らされるような人間になりたくなかった。賢く状況を判断し、大事な人たちを助けたりしたかった。それが僕の思う「まともな人間」だった。
 要は、僕は(和製英語的な意味で)クールな人間になりたかった。ハードボイルドと言ってもいい。
 本や漫画やアニメの影響を大きく受けていたのだろう。やつらの世界はいつだって非日常に溢れているから。主人公のようにとまではいかなくても、主人公から信頼される重要人物のようになりたかった。宮台真司は「終わりなき日常を生きろ」と言っていたが、娯楽作品に非日常が楽しげに描かれている以上、それを切望しないでいるのは無理な話だ。

 そして、月日が流れ、3/11が来た。

 今回の地震は、まさしく大きな緊急事態であり、ぽっかりと巨大な非日常が発生した。僕は不謹慎にも初めからワクワクしっぱなしだった。

 やっと来たと。やっと切望していた非日常が来たと。
(まあ、東京の被害なんてたかが知れているのだけど)

 僕は長年夢想してきた「まともな人間」の指針に従い、彼女を迎えに行ったり、彼女の不安な気持ちをケアしようと努め、放射能について正しい知識を得ようと、友人がかつて言っていた「ネットで調査する際気をつけること」を思い出し、情報の出所まで遡って読み、時に英文も辞書片手に読み、政府と民間の放射能モニタリングポストを比べ、つまりは賢く冷静であろうと努めた。
 冷静と言いつつ、テンションはだいぶ高かったと思う。なんたって、やっと訪れた非日常なのだから謳歌しないわけにはいかない。そんな感じで3週間くらいが過ぎた。

 僕のこの反応もまた地震によるパニックと言えるかも知れないけど、僕にしては、うまくやったほうだと思う。僕は少しだけ安心した。僕はそこまでダメな人間ではなかったと。夜間飛行(by サン=テグジュペリ)でいうエルランではなかったと(エルランはほんとダメな奴なんです)。
 もっともそのあと、高いテンションだったリバウンドが来て、2,3日寝込んでいたが。

 そして、今。4月も後半だ。
 非日常と日常でまだら模様になったような気分が続いている。

 非日常は、それまでの日常はリセットしていかなかった。非日常は、それまでの日常で積み上がったしがらみを消してはくれなかった。非日常は、積み上がったものを散らかしてくだけだ。当たり前の話だ。

 ほんとうの現実は、最終回のあとも続くのだ。いかにそれが最終回のように感じられたとしても。そして、最終回のあとも生きていくというのは、ありがちだが、最終回よりも骨が折れることなのだ。

 このゲリラ戦のような日常/非日常混在の世界で、まだ僕は、クールでいたいと願う。ハードボイルドでいたいと願う。でも、きっと、地震当日、彼女を迎えにいったときに、すれ違ってしまって彼女は悠々と先に帰宅していたように、そう僕の思惑通りには、事は運ばないのだろう。まあ、それもいつものことだ。

P.S. 今さらながら、あんま関係なく、かつ手前味噌だが、「最終回のあとも物語が続く」ことへの感情を曲にして発表したことは、なんつーか、ただただびっくりだ。(あと、水葬をモチーフにした曲を発表したことも)

「大きな穴」に吸い込まれる話 – カズオイシグロの「浮き世の画家」

カズオイシグロの「浮き世の画家」を読んだ。その感想を書く。

読んでいない人の為に、あらすじを紹介するのは面倒なので割愛する。そして、容赦なくネタバレ内容を書くことにする。

「浮き世の画家」を読んだとき、何かモヤモヤしたものが残った。読んでいる途中、あれ?と思うようなことがあった。それらはなんだったのだろうと、思い返している。どうも、うまく考えられないので、ネットで他の人の感想を読んでみた。なんとなく見えてきた。
 多分、穂村弘の言う「大きな穴」に近いことなんじゃないかと思った。穂村弘のどこかのエッセイで、書いてあった。
「子供の頃はあんなに嫌いだったネギを、今はあの甘い汁がうまいと言って食べることが出来るようになった。以前は憎かった人たちに対して、彼らには彼らの事情があるのだと、以前より寛容な気持ちを持てるようになった。若い頃どんなにとがっていた人も年を経ると次第にその角が取れて、いい人になってゆく。それは僕には、何か大きな穴のようなものに回収されていく様を思わせる。ネギが美味しくなってしまった自分もまた、その大きな穴に回収されていくちっぽけな存在に過ぎないのかもしれない。「人間愛」とか、名付けられそうなその大きな穴は、満ち足りていて、だけどどこか、怖い。」
 --そんなような話だったと思う。ものすごくうろ覚えで申し訳ないけど。
 とにかく僕は、一つにはその「大きな穴」を思った。若い頃によく考えもせず、うろうろと複数の師匠を渡り歩き、たまたま見つけた愛国心に、ちょうどよいとばかりに若い情熱を投じ、年老いた今はそれらをさも考えがあってやってきたかのように記憶を読み直し、自分の業績を少し過大評価し、また、精一杯やってきたから悔いはないと自己正当化する。僕は、ああ結局は彼もそこに回収されていってしまったんだな、と思った。多分。そこというのはもちろん「大きな穴」のことだ。
 彼の師匠、モリさんも同じ道を進み、彼は袂を分かち、続いていずれは彼の弟子の黒田がその道を行くのだろう。我々は精一杯やったのだと、「大きな穴」に回収されていくのだろう。そして、人間愛とも呼べそうなその「大きな穴」は、実のところ少々の諦念や、少々とは言い難いほどの自己欺瞞や独善で出来ていたりするのだ。

 更に言うと、僕もまたそこに回収されていくのだろう。なぜなら、今でさえ音楽活動など一つ一つの行動を解釈(=再構築)し、自己を正当化し続けなければ、次の行動への勇気が持てないような臆病者だからだ。

 努力していることをアピールする人を僕が嫌悪するのは、一つには、そこに常に記憶の再構築という自己欺瞞や独善が垣間見えるからなのだろうか(もちろん他の理由には同族嫌悪があるだろう。彼らの中にある自己欺瞞などが混ざった自己正当化傾向が、僕の中にもあると突きつけられるのだ。)

村上春樹の作品と偽史的想像力の魅力について、わかった。

やっとわかった。
何の本だろう、あれは。村上春樹についての批評で
村上春樹の通称羊三部作を中心とする小説群について
偽史的想像力と言っていたものがあった気がする。

確かに、またどっかの村上春樹批評本で
羊三部作やノルウェイの森の年表が作られていた記憶があるので
確かにそうだなあ、と思っていたのだけど
それが作品としての魅力にどう貢献しているのか
いまいちピンと来ていなかった。

つまり、
「ふふん、村上春樹は偽史的想像力ね、なるほど。。。だから?」
という感じだった。
僕は頭の中で特に年表も作らないし。

しかし。
ここんとこ、見ていた
「とある魔術の禁止目録」
「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」
についてぼんやり考えていたら、
ふっと、「ああ、偽史的想像力ってこういうことだったのか」
と理解した。

と言ってもこれらのアニメ作品において
偽史的想像力の発現が顕著なのかというと
別にそういうわけでもない気もする。
しかし、偽史的想像力を含むキャラ設定など各設定があって、
それらを格納するデータベースの存在が、
これらのアニメにはあると思う。
そして、アニメを見るうちになんとはなしに頭の中で
そのデータベースの内容を補完して楽しんでいる自分が、
確かにいた。
それを思い出し、村上春樹の小説の魅力の一つとしての
偽史的想像力というものについて理解するに至った。

そういうわけなのです。

村上春樹の羊三部作、ノルウェーの森では、
他の小説家なら書き込んだであろうクライマックス
俗にいう修羅場みたいなものを書き込まないことが多いように思う。
羊三部作の「羊をめぐる冒険」と「ダンス・ダンス・ダンス」
の間では「僕」は職場の事務?の女性と結婚し
そして離婚している。
そういったメロドラマ的なエピソードは小説の中では
語られず、単にほのめかすのみに終始する。
そして読者はなんとなく「結婚してもう離婚したらしい」
とか、「好きな女性が自殺したらしい」
こと経緯を頭の中で補完するのだ。
多分、偽史的想像力を誘導する箇所が
他にもたくさんあると思う。
上記長編小説のスピンオフ的な位置づけに読めてしまう短編小説だってある。
読者はそれらの情報から、
ことの経緯をなんとはなしに想像して了解するのを楽しんでいる。

そうか。そういうことだったのか。

そして実は、
それらのことを考えるに至ったそもそもの動機は
自分の楽曲をどう作っていったらいいか、という問題があったからなのだけど
ここまでの結論を使うと、
その偽史的想像力というものを楽曲の制作に何か応用できないだろうか
という問題が次に設定できる。

うーん。

自分の作品は基本的に
話の流れの中の、ある一場面を記述するのに終始して
その場面の発生の経緯や明確な思いみたいなものは
リスナーに想像させる、という手法をずっとやってきた。

だから、歌詞に明確に書かれていない作品内の事実を
リスナーが想像する、という意味では
偽史的想像力と親和性はあるような気がする。

しかし、僕は一つのテーマを
複数の作品に分けて書くということはしていない。
なので、村上春樹の小説群で発生する
作品間の行間のようなものは醸成されるに至っていない。

もちろん、僕の作品の全ては一貫した僕の考えが
込められているわけではあるけど。

でも、もしそれができたら面白いかもしれないなあ。
誰か音楽やっている人でこういうやり方に興味がわいた人がいたら
是非やってみてほしい。

あえていえば、僕の楽曲のそれぞれの歌詞は
それを作った当時の僕の考えが反映されているため
シシドヒナタ自身のビルデゥングスロマンとして
読み解くことは可能であるのだろうけど。
それははっきり言って恥ずかしい。うん。

いやあ、でも今日はちょっと
すっきりした気分になった。

よかったよかった。

最近。

久しぶりにブログを更新するのです。

できれば昔よく書いていたように
何らかのたわいもない発見を書きたいのだけど、
最近のそれは、
自分の個人的なこととの結びつきが強くて
うまく一般化できていないので
書くのを躊躇してしまうのでした。

なので、まだ発見していないことを
これから発見して書きたいと思います。

えー。
なんだろねー。

こーねー。

新規にリスナーを開拓したいんですよね。
Twitter上では
決まった方々が応援してくれているのですけど
その方々以外の人たちが増えていかないのですよ。

あ、愚痴になった。

その応援してくれる方々が
友人とかだったら、
まあ、つきあいで応援してくれているんだなと
思って、

あ、うん、僕の曲は良くないんだね。

と思うことも出来るのですけど

実際のところ、
Twitter上で初めて知り合った人のほうが、はるかに多いわけです。
それはもう。
そうすると、

人によっては魅力的に感じてくれるらしい

と思ってしまうではないですか。

しかし、新規になかなか人は増えていかないと。
これはなぜだろうと考えないと行けない。
考えなくてはいけないのだけど
基本的に制作は余裕がない為、それを後回しにしてしまう傾向があるわけです。
それはよくない!

それはよくないねえ。

根本的な原因としては

人々にあまり聴かれていない。

というのがあると思うんです。
その証拠としては、YouTubeの閲覧件数が上げられる。
全然伸びてない。
閲覧件数の伸び悩みの原因の中には
大きくはもちろん曲の魅力も含まれるとは思いますけど
そもそもとして、シシドヒナタの曲を聴こうと思う
その頻度が少ない!と考えられるわけですわ。

なぜ聴こうと思ってもらえないのか。

・シシドヒナタのことを知らない
・シシドヒナタのことを知っているが興味が湧かない

この2つ原因が考えられる。
まあ、いつだってここに戻ってくる。
僕がもし天皇家の皇太子とかであれば
ちょー閲覧数伸びると思う。

でも僕は親はサラリーマンで
どうやら農家の出らしいし。

というわけで
僕のことを知らないのはしょうがないわけだ。
じゃあ、どうやって知られればいいかっていうと。
お金をかけて広告をばんばん打つか、というと
そんなお金はない!人望もない!

じゃあ、結局のところ

・シシドヒナタのことを知らない

を現状以上に改善するのははっきり言って無理、と。
ならば、

・シシドヒナタのことを知っているが興味が湧かない

ここを改善するっきゃないわけだ。
つまりだ、
シシドヒナタを知ったときに
興味を持ってもらえる確率を増やすにはどうすればいいか。

つまりだ、毎日Twitterでつぶやいているわけですよ
何かは。
だから、人々のタイムラインには表示されるわけだ。
しかし。それがシシドヒナタへの興味へと繋がらないのです。

まあ、流れるしね。ツイートは。あっという間に。

でも。
ここまで考えて、ちょっと課題が見えてきました。

・「シシドヒナタのことを知らない」を改善するのは、難しい。
・「シシドヒナタのことを知っているが興味が湧かない」を改善する必要がある。
・日々のツイートをシシドヒナタの興味へと繋げるようなものにする必要がある。

というわけで、
ちょっとは発見があった。
集客っていうのは、今は難しい。
近づいてきた人の心をつかむ方法を改善しないといけない
ってことだ。

あー。
俺ほんと頭悪いな

同性を代表して意見を言うこと(ほぼ日モテキ座談会読んだ)

ほぼ日でやられている、
モテキの作者久保ミツロウさんを
囲んだ座談会を読んだ。

http://www.1101.com/moteki/

面白かった、気がする。

僕が抱いた感想は、
「結構、簡単に同性を代表して意見を言っているなあ」
というものだ。
(ごめんなさいまたどうでもいい感想で)

どういうことかというと、
男性というのはこういうものなんですよ
というふうな形で
自分は男性で、だから男性のことはわかっている
というスタンスのことを言ってます。

僕はどうもそのように
「自分が男性であることによって
男性を代表した意見を言う」
ということに抵抗を感じてしまうようだ。

多分、それは
男性だからってみんな同じなわけじゃない
という思いが強いのだと思う。

もっとも、
悪く見れば、僕は未だに特別でありたいという
願望を持っているだけなのかもしれない

【長文】映画「ぼくとエリ」を見た。

映画「ぼくとエリ」を見た。

感情移入することはなかったけど、面白かった、と言えると思う。
「言えると思う」だなんて曖昧な書き方をしてしまうのは
自分の中でどう消化していいか分からないからだ。

まずは、どういう映画なのかというと。
12歳の少年オスカーという主人公がいて、でもこの子はいじめられっ子で気が弱い。場所はスウェーデンだったかな。彼の住む団地に不思議な少女エリが引っ越してくる。夜にしか会えない。
というのも実は少女は吸血鬼なのだ。彼女は彼の街で人を殺して血を吸うためにやってきた。で、オスカーへのいじめを巡るすったもんだなども絡んで話は進んでいくと。

公式のプログラム700円でのキャッチコピーや
解説では「怖ろしくも、哀しく、美しい12歳の初恋」となっている。
恋愛ものってことになっているけど、
実態はそうではなかった。

以下、ネタバレな感想になるので
もし、これからこの映画を見ようと思っている方はご注意を。

あと、普段僕は映画をほとんど見ず、
なので映画リテラシーが著しく欠損している。
従って、一般の平均的に映画を見ている人や
たくさん映画を見ている人からすると
的外れな感想かもしれない。

僕が映画を見ていて思ったのは。

「弱肉強食」

という四字熟語だった。
あまりにロマンチックじゃないし、身も蓋もないなと思う。
でもこれに沿って感想を書いてみる。
今回の映画では、
弱=人間で
強=吸血鬼だ。
つまり、吸血鬼は人間の捕食者ということだ。
しかし、吸血鬼はちょっと不思議な形の捕食者ではある。
まず、太陽の光を浴びることができないし、血を吸う(人を殺す)必要がある。
したがって吸血鬼一人では生活することが非常に困難だ。
最終的な結論としては、吸血鬼は人間の介助なしには生きていくことが難しい。
その点では弱者でもある。
一方、吸血鬼の身体能力は人間をはるかに凌駕するもので
彼女と相対する人間は常にその身体を無防備にさらすことになる。

整理すると
吸血鬼は、人間の介助を必要とする弱者であり
同時に人間を主食とする捕食者でもある。

映画はロマンチックなキャッチコピーとは相反して
非常に暴力的な描写が生々しく、残酷だ。
そのせいか、エリがオスカーと一緒にいる時は
徐々に捕食者と被捕食者の緊張感が漂うことになる。
しかし、オスカーは圧倒的な強者に、
最後には完全に心を奪われる。

僕が一番緊張したのは、
エリが吸血鬼だと判明した後、
血まみれの口のエリとオスカーが初めてキスをする場面だ。
エリの口はオスカーの首筋のごく近くにある。
エリはオスカーを襲おうと思えばいつでも襲える。
オスカーは圧倒的な命の危険の前に
自ら目をつぶり、無防備にその身をさらし続けた。

僕は圧倒的な理不尽さを前にそれを受け入れることができるだろうかと自問した。

映画の序盤、エリには老人の介助者がいる。
彼もオスカーのようにエリを好きになり
何十年も介助し続けたのだろう。
(酒場の場面で周りの年寄りが皆ビールをぐびぐび飲んでいる傍らで一人牛乳を飲んでいた)
序盤の殺人1件はこの老人によるものだ。
老人は町に来てからの2件目の殺人に失敗したとき、
自らをエリの食べ物として差し出した。

僕は、エリの圧倒的な強者ぶりや
介助なしには生きられない弱者ぶりのアンバランスさと、
エリに対する老人の異常なほどの献身や
オスカーのキスの時の受け入れる様子を
つなげて何かを思った。

何を思ったかは自分でもわからない。
でも何か思った気がする。
宗教に関する何かだったかもしれない。

ひとつ、個人的に気になるのは
エリが放ったオスカーに対するセリフ。
「少しでもいいから、私を理解して」
とオスカーに馬乗りになって迫った時。
彼女の寄生捕食者としての手管なのだと言えばそうなのだけど
理解する、ってどういうことなんだろう
と、思った。
映画に対するいちゃもんではなく。
ここ数年、「好きな人を理解する」というのは
いったいどういうことを言っているのだろうか
と考え続けている。

2086年7月21日の天声人語

2086年7月21日の天声人語
◆今日は、日本省にとって感慨深い日だ。それというのも、平成天皇のご逝去された日のデータが削除された日だからだ。
◆2043年、指数関数的に増大するライフログデータのデバイス圧迫に歯止めをかける為、「生活記録等電子情報の保存に関する法律」(通称:電子情報保存法)が施行された。そして2063年に最初の電子データが削除され、誰もがいつかは訪れることを考えていた日が、とうとうやってきてしまったのだ。そう、2043年に我々は「忘れる」ことを決断したのだ。
◆今回削除されたデータは日本省民の心情を配慮し、削除データのURIが公開されている。ちょうど一週間前、平成天皇ご自身の肉声データの一部が削除された際の騒ぎの大きさにより、中央当局が取った措置だ。
◆削除される情報は資料として有用でないライフログデータばかりとはいえ、当時の情報の96%(バイト比)にも上る。「ご逝去された当時の世間の雰囲気や省民一人一人の心情など、ログ全体を通して初めてわかるリアルな情報が失われる」(東京大学 情報哲学科教授 劉絵見(りゅうえみーる)さん)との指摘もある。
◆もはや当時を知る人々も少なくなってきた中、我々省民は再度、平成天皇の行った英断を思い出し、特別独立省としての自立心を確認すべきなのではないだろうか。

コメントが2件あります

・I cant understand this old language. tell me what you write ?

・我们报告

名言扱いされたツイート。

もし、君が歩く道に、誰も行く手を遮るものがおらず、遠くまでよく見渡せたなら、それはつまり、君が行く手を遮っているということだ。

スコップがないので穴は掘れない

「才能」という言葉を信じていない。

「才能」という言葉は人の能力というものについて誤解を与えやすい言葉である気がする。
「能力」という言葉は、現実に今、発揮可能な力のことだ。
「彼は作曲する能力がある」と言った場合、
彼は今、作曲することができる、ということだ。

しかし、「才能」は違う。
「彼は作曲の才能がある」と言った場合、
必ずしも今、作曲できることを意味しない。
将来、作曲することができるかもしれない、ということを含んでいる。

才能という言葉の使われ方には
いくつかパターンがあるように思う。

・「自分に才能があるかわからない」という使い方
この使い方の場合、
彼は、
「将来の成功が保障されているか保障されていないか、わからない」
と言っている。
僕の考えでは、成功が保障されていることなど存在しない。
したがって、そのように悩むのは無駄といえる。
つまり、彼は単にまだ覚悟がないと思われる。
自分の人生を何に浪費するかに対して。

・「僕には才能がある」という使い方
これは、「将来的に自分が成功する、と信じている」
と言っていることになる。
さきほど言ったように必ずしも現在の能力は問われていない。
したがって、その自信に根拠がない場合がある。
しかし、それ自体は別に悪いことではないと思う。
根拠のない自信はないよりあったほうがいいと思う。

・「自分には才能がなかった」という使い方
これは何かを諦めるとき、すっぱり足を洗うための、
勢いをつけるための言葉だ。
「世の中には「才能」という、
自分の努力ではどうにもならないものがあって
それが僕には与えられていなかった」
と言っている。
はじめから、成功に必須のものとして
「才能」というものがあって、
それが自分には与えられていないから
諦めることが合理的だ、というふうに彼は考えている。

これらを総合すると、
才能がある、なし、あるかわからない、この3つの使い方において
「成功に必須の何かよくわからないもの」
という意味では共通しているようだ。

「成功に必須の何かよくわからないもの」

というのは、
僕は何か挑戦するに当たって考える必要のないことであるように思う。
だって、よくわからないものは、探りようがないのだから。

人の能力というものをブラックボックスとしてとらえていては、
成長することはできない。
なぜなら、能力を伸ばすには、
適切なトレーニングや準備や環境が必要で、
適切なトレーニングや準備や環境を手に入れるには、
その能力について、それがなんなのか考えることによってのみ
手に入れることができるからだ。

成長がなければ、まず成功はない。

また、その能力を手に入れることができないとわかったなら、
自分が手に入れることのできる、あるいはすでに持っている能力を
組み合わせることで代替できるかもしれない。

「大事なのは才能がないと嘆くことではなく
自分が持っている能力をいかに工夫して組み合わせるかなんだ。
君らはわかっていないが。」

高校時代、生徒に大変不人気だった教師が
授業中に言った言葉。
僕も苦手だったが、これだけは覚えていようと思った言葉だ。

スコップがないので穴は掘れないと考えるか
スコップの代わりがどこかにないか探そうと考えるか。

オレ様メソッド

■権威との接触
世に隠れし権威との接触に成功した。
何の権威かと言うと、「オレ様」の権威だ。
おかげでオレ様に関する理解が格段に深まった。

僕はこれまでオレ様について
いったい何を知っていたというのか(いいえ何も知らなかった[反語])
という気持ちだ。

オレ様は女子になんだかんだでとても人気だ。
オレ様好きを公言する女子は多い。

なぜ、オレ様なのか。
なぜ、世の女子はオレ様になびくのか。
とても疑問だったが、あまり深く考えたことはなかった。

しかし世の中にはいろいろな専門領域というのがあって
オレ様についてもそれは例外ではなかった。

。。。くどいな。
前フリはやめて、さっさとしゃべります。

僕は権威にまず、素人の蛮勇をもって
「オレ様とは何なのですか」と
尋ねたのだった。すると

「オレ様」の話は、深いよ?

と権威はニヤリ。
ビールと飲みつつ、スルメかじりつつ
夜は更けていくのであった。。

■オレ様3要素
権威が酔って身の上話を交えて来たため
なかなか難解な講義となったが、
ひとまず、オレ様にはその言動面でオレ様3要素
という特徴があるらしい。

(1)わがままである(えらそうともいう)
(2)お姫様扱いする
(3)「オレが守ってやる」発言

こう3要素に分類することによって
いろいろなことがわかる。
まず、オレ様は(1)わがままだ。

当たり前というツッコミが聴こえる。

そう、オレ様といえば、わがまま、自分勝手、えらそう。
しかしだ。
どうやらこの要素については女子もあまり好きというわけではないようだ。
よほどのドMをのぞいて。
オレ様の代名詞と言われる性質は実は
女子にとっても特に魅力的な訳ではないらしい。

ここで、(2)お姫様扱いが出てくる。
オレ様といると、女子は自分がか弱い女子になったような気分になるという。
これは「僕は君と対等な関係でつきあいたいんだ」なんてのたまっている
お坊ちゃんでは味わえないらしい(滲みるなあ)。
自分がか弱い女子になって
ちょっとしたお姫様扱いをされる。
その時、権威曰く「何か快感物質が女子の脳みそからどばっと出ていると思う」

ここで最後、(3)「オレが守ってやる」発言。
たいていのオレ様はこの発言をするらしい。
か弱い気分の女子としては、これがとても頼れる感じに写るとのこと。

つまり、女子にとってオレ様がいいのは
自分が「女の子」になれるからのようだ。

実はこの女の子気分、オレ様に実に周到に引き出されている。

■オレ様メソッド

この3要素を見た時、あなたが非オレ様な男子なら
「じゃあ、わがままにふるまわないで
お姫様扱いして
『オレが守ってやる』発言すればいいではないか」
と思わなかったろうか?

えー。
思ったことにして、話を進めると、

いやいやそうはうまくはいかないんだなこれが。

女子にか弱い女子である気分にさせるには、
オレ様のやり方の場合
(1)わがままが必要不可欠なのである。。。!(盛り上がってきました自分的に)

このオレ様のやり方を仮に「オレ様メソッド」と呼ぼう。

オレ様メソッドを理解するにもオレ様3要素で考えると
わかりやすい。
オレ様3要素の並びは(1)から(3)に実は時系列になっている。

つまり

女子はオレ様に
(1)邪見に扱われることによって
(2)自分をか弱い女の子と認識し
(3)オレ様が頼りがいがあるように見てしまう。
ということなのだそうだ。
これがオレ様メソッドだ。

権威はもっと踏み込んでこうおっしゃった

「恐怖を感じさせるくらいのオレ様っぷりでも
いや、むしろそのほうが女子は
自分のか弱さを認識するので
怖いだけでもう女子は女の子になれる、
つまり女の子快感物質が分泌されることが十分にあり得る」

まあ、オレ様のオレ様っぷりは
それはそれでいろいろあるようで
中途半端だったり、へたくそだと
ただの勘違いしている人になってしまうようだ。

逆に高度なオレ様は、
一見普通の会話でもそれだけで
女子に十分オレ様っぽさを感じさせ
その結果女子は女の子気分になれる
のだそうだ。

こわい、こわいよ、オレ様!

そのようにして
日々女子はオレ様にときめいていくのだ。

オレ様の権威としては
これは一種の詐欺みたいなものだと、言う。
オレ様がひどい扱いをすることで
女子は自分をか弱く感じ
そこですかさずお姫様扱い及び「オレが守ってやるよ」発言。
うーん。確かに。そう言われてみれば。。。

さらに権威はくだをま、、いや、おっしゃる。
オレ様の「オレが守ってやる」発言のその意味も問題だ。
オレ様にとって守ってやるというのは
何か戦争が起こったり地震が起こったり
とエマージェンシーな出来事があったときのことを言うのだそうだ。
そんな有事の時は「お前を守ってやるよ」なのだそうだ。
有事の時以外はわがまま放題なのだそうだ。
権威は叫ぶ「そんな日は来ねえっつーの」

最後に、権威は言った
「男はみんな多かれ少なかれオレ様だ。。。」と

冷えた煮込みを残して
浅草の夜は更けていくのだった。。。

※この話はフィクションです。登場する人物は実在しません。多分。