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月刊シシドヒナタ、終了のお知らせ。

こんばんは。シシドヒナタです。
突然ですが、月刊シシドヒナタを終了します。

2010/2/4から初めて毎月1曲ずつ、
1年で12曲を配信する、
その後アルバムとしてリリースする、

と宣言していましたが、
3ヶ月の曲作り期間を除いた、
2011/4/4までに間に合いませんでした。

申し訳ありません。。。

終了するる理由はいくつかあります。

・12曲の配信を優先するより、アルバムリリースを優先したい。
・既に月刊じゃなくなってる以上、月刊は名乗れない。
・無理矢理月刊でリリースするより
 納得できる音源を作って発表したい。

シシドヒナタの曲を聴いてくれる方々への考慮というより
完全に制作者(シシド)側の都合によるものです。
つまり、ひとえにシシドの楽曲制作能力の不足によるものです。
非常に申し訳なく思っています。

その他幾つか、発表することがあります。

2ndアルバム2011年秋発売

月刊シシドヒナタ終了の代わりと言っちゃあれなんですが
2ndアルバムを秋に発売します。
楽曲は基本的に月刊シシドヒナタにてリリースしたものを
再ミックスし、曲によっては再レコーディングし、
リリースします。
これからリリースに向けていろいろ準備や仕掛けをしていきます。
楽しみにしていてください。

新曲のリリースについて

これからしばらくは、新曲については
月刊と決めず、リリースできるタイミングとなった時点で
都度、アナウンスし、リリースしたいと思っています。
皆様気長にお待ちくださいませ。。。

月刊シシドヒナタのリリース曲について

YouTubeにて視聴できるようになっていましたが、

・メルヘン
・川と花
・セル塩麺DEATH
・サンキュー

のみ視聴できるようにします(変えるかもしれませんが)。
mp3の購入はアルバムのリリースまで可能です。

その他

リミックス用トラックは今後もダウンロード可能にします。
好きに使ってください。
多分アルバムリリースの時点で、
リミックス用トラックはよりクオリティの高いものに差し替えます。
また、この一年間Twitter上で呟いていた
いくつかの企画は今年実行に移すつもりです。

以上で、月刊シシドヒナタを終了します!
一年間つきあっていただき、本当にありがとうございました!

これからもシシドヒナタの楽曲のことを
どうかよろしくお願いいたします。

シシドヒナタ

「大きな穴」に吸い込まれる話 – カズオイシグロの「浮き世の画家」

カズオイシグロの「浮き世の画家」を読んだ。その感想を書く。

読んでいない人の為に、あらすじを紹介するのは面倒なので割愛する。そして、容赦なくネタバレ内容を書くことにする。

「浮き世の画家」を読んだとき、何かモヤモヤしたものが残った。読んでいる途中、あれ?と思うようなことがあった。それらはなんだったのだろうと、思い返している。どうも、うまく考えられないので、ネットで他の人の感想を読んでみた。なんとなく見えてきた。
 多分、穂村弘の言う「大きな穴」に近いことなんじゃないかと思った。穂村弘のどこかのエッセイで、書いてあった。
「子供の頃はあんなに嫌いだったネギを、今はあの甘い汁がうまいと言って食べることが出来るようになった。以前は憎かった人たちに対して、彼らには彼らの事情があるのだと、以前より寛容な気持ちを持てるようになった。若い頃どんなにとがっていた人も年を経ると次第にその角が取れて、いい人になってゆく。それは僕には、何か大きな穴のようなものに回収されていく様を思わせる。ネギが美味しくなってしまった自分もまた、その大きな穴に回収されていくちっぽけな存在に過ぎないのかもしれない。「人間愛」とか、名付けられそうなその大きな穴は、満ち足りていて、だけどどこか、怖い。」
 --そんなような話だったと思う。ものすごくうろ覚えで申し訳ないけど。
 とにかく僕は、一つにはその「大きな穴」を思った。若い頃によく考えもせず、うろうろと複数の師匠を渡り歩き、たまたま見つけた愛国心に、ちょうどよいとばかりに若い情熱を投じ、年老いた今はそれらをさも考えがあってやってきたかのように記憶を読み直し、自分の業績を少し過大評価し、また、精一杯やってきたから悔いはないと自己正当化する。僕は、ああ結局は彼もそこに回収されていってしまったんだな、と思った。多分。そこというのはもちろん「大きな穴」のことだ。
 彼の師匠、モリさんも同じ道を進み、彼は袂を分かち、続いていずれは彼の弟子の黒田がその道を行くのだろう。我々は精一杯やったのだと、「大きな穴」に回収されていくのだろう。そして、人間愛とも呼べそうなその「大きな穴」は、実のところ少々の諦念や、少々とは言い難いほどの自己欺瞞や独善で出来ていたりするのだ。

 更に言うと、僕もまたそこに回収されていくのだろう。なぜなら、今でさえ音楽活動など一つ一つの行動を解釈(=再構築)し、自己を正当化し続けなければ、次の行動への勇気が持てないような臆病者だからだ。

 努力していることをアピールする人を僕が嫌悪するのは、一つには、そこに常に記憶の再構築という自己欺瞞や独善が垣間見えるからなのだろうか(もちろん他の理由には同族嫌悪があるだろう。彼らの中にある自己欺瞞などが混ざった自己正当化傾向が、僕の中にもあると突きつけられるのだ。)

1年間の反省その3(その他)

1年間の反省の最終回です。内容はその他的なものです。ぐずぐずです。

■空撮イベント
 去年の2月は、シシドはUstreamとiPhoneを使って空撮の生配信を行った。全く音楽に関係なかったのだけど、あの時考えていたのは、通常のUstreamの配信と違って、Twitterユーザに配信者側にも回ってもらって楽しんでもらう、ということだった。
 前回のエントリで書いた、Ustreamの共時性とも通じる話なのではないかと思う。
 空撮の現場である池袋西口公園に来てくれたのは、さすがにもともとの友人が多かったが、アナウンスや段取りや準備がきちんとされれば、現場にもっと来てもらえたかもしれない。風船を使った空撮という非日常感溢れる催しだった為か、Ustreamから観ている人達もわりと盛り上がっていた気がする。
 空撮については春にでもまた行いたいと思う。

■密室ライブ(予定)
 去年の秋ごろから「密室ライブをやる!」と宣言していたが、まだアナウンスできる状態になっていない。何をやろうとしているのかというと、Ustreamなどの配信をなくしてライブをすると。なるべく距離感の近いようにして演奏を行うと。それによって、より密な関係を作ると。前述の用語で言えばエンゲージメントの強化ということになるのだろうか。

■非日常の提供
 ここまでその1その2、と書いてきて思い至ったのは、アーティストには非日常の提供が期待されているのだなあ、ということだ。いやまあ、当たり前の話なのかもしれないけど。
 例えば、友人グループの中で突拍子もないイベントを計画する人っていると思う。そういう人が一人でもいると、普段なら体験しないようなことが体験できたりする。その延長線上にアーティストはいるのかもしれないな、と思った。
 だから、僕は作品でもイベントでも「シシドヒナタがいなかったらと体験できなかった」と思ってもらえるようなものを提供しないといけないのだ。多分。

いやあ、話にまとまりがなくなってきました。なくなりついでに更に。

■世界観をプレゼンし続けること
 結論としては、エンゲージメントの構築については、なかなかちゃんとやれていると。しかし、リスナーの情報発信にあまり繋がっていない、という現状がこれまでの記述で見えてくる。じゃあ、どうすれば情報発信しやすいのかなと、考えたときに、世界観の共有がまだあまりされていないのかもしれないと思ったりした。
 正直なところ、シシドヒナタの世界観に同時代性があるかと言われると、あまりないかなと思う。だから、共有はされにくい気もする。
 まず第一に僕の楽曲は連帯を目指していない。ただ、メロディと歌詞とサウンドで、ある特定の状況を演出するだけだ。そして、ある種の感傷に浸らせるようになっている。感傷の内容は、多分人それぞれ感じ方が変わってくるんじゃないかと思う。それは共有と言えるのか、疑問だ。仮に共有だとしてもそれが情報発信に繋がるかというと、どうも期待できそうにない。それ以前に感傷は暗くて前向きじゃなくて嫌いだ、と感じてしまう人もいるだろう。
 でも、僕は感傷ってそう悪くないと思っている。感傷とは辛いことや悲しいことを、辛いまま、悲しいままに味わうということだ。辛いまま、悲しいままに、美しいことだと感じることだ。美しいと感じることは、辛いことを辛いとしか感じられないことより、ほんの少しだけマシだと思う。
 死んだ友人を夢想したり、歪んだ特別意識から春を嫌悪したり、自虐的に好きな人の恋愛相談に乗ったり、目指していた夢が砕け散った後の毎日がいたたまれなかったり、散らかしたコンビニ弁を蹴飛ばしたり、自分の人生が全く自分でコントロールできていない不安に襲われたり、そういったことに素晴らしさや美しさを見出してしまう魔法を僕は音楽でかけたいのだ。
 そういったことを多分、あまり伝え切れていないのだろう(それは僕の音楽が力不足であるということでもある)。そういうのは実生活でもあまりわかってもらえないものだ。だから、僕はもっとプレゼンすべきなのかもしれない。例えば、密室ライブでエンゲージメントを強化するというなら、そういったことに対する感受性をうまく伝えられるものにすべきなんじゃないだろうか。そのあとどうすべきかは何も見えていないけど、わからないので、まあ、やった後で考えることにする。

やはり、どうも考えが進まないが、しょうがない。
この辺で、1年間の反省は一旦終了にします。
長々とおつきあいありがとうございました。
これからもシシドヒナタをよろしくお願いします。

シシドヒナタ

1年間の反省その2(Twitterのエンゲージメントとか)

さて。1年間の活動の反省続きです。

■音楽メディア
 新しい活動の仕方だから、メディアに少しは注目してもらえるのではないかと期待していた部分があったが、全くそんなことはなかった。全く取り上げられることはなかった。
 いくつか原因を考えることができる。もちろん、楽曲に魅力を感じてもらえなかった、というのもあるのかもしれない。シシドヒナタの活動の規模があまりにも小さいから相手にしてもらえていない、というのもあるだろう。また、「新しい活動スタイルを積極的に紹介して、新たな流れを作る」という視点を持ってもらえていない、という邪推もできる。似たような活動をしているアーティスト達(僕を含む)がどうなっていくのか、今は様子を見ている、というところが現状なのかなあと思ったりも。もっとも、全く接触がないので、各音楽メディアがどのように現状を見ているのかわからないのだけど。

■Twitterによるエンゲージメント
 Twitterについては、口コミとは別のところで、非常に恩恵を受けたと思う。それは、広告業界の用語でいう「エンゲージメント」というやつだ。エンゲージメントというのは「顧客と深いつながりを築く」ということらしい。その観点から言えば、まずまずだったのではないかと思う。
 今年は多くの見知らぬ人たちとTwitter上で知り合い、作る音楽を支持してもらい、また、応援してもらえたと思う。Twitterがなければこのような出会いは発生しなかっただろう。人付き合いがあまりうまくないシシドにいつもよく付き合っていただけて感謝しきりなのである。
 もしかしたら、そういった状況を「馴れ合い」と見る人もいるかもしれない。でも、実際は楽曲が悪ければ「馴れ合い」にすらず、スルーされるのだ、と思う。
 僕がエンゲージメントの構築に関してまずまずの成果が得られたのだとすれば、それは、作品を作ることを含めた音楽活動の過程を全てTwitter上で見せていたからなのじゃないかと思う。

■ツイートの有効時間とUstream
 個々のユーザのフォロー数によるが、一つのツイートの有効時間はそんなに長くはない。僕もそうだが、基本的にユーザは今現在表示されているツイートしか見ないのではないかと思う。だから、大きな口コミが発生するには、まとまった時間に多くの関連するツイートが発生する必要があるのだろうと思う。その点において、Ustreamは有効だと感じた。つまり、

自分のTL上で、シシドヒナタのUstreamに関するツイートが頻繁に出てくる。

それでシシドのUstreamを見る。

シシドの楽曲を聴いて気に入る。

という流れがけっこうあったようだった。
 Ustreamをやっている側としては、Ustreamの画面で、全てのツイートがきちんと表示されているわけではなく、全く更新のされない期間が結構あったりして(その場合は手動で画面を再表示させるのだけど)聴いてくれる人達の反応を汲み取りきれていない感じもした。

■Ustream今後
 Ustreamを使ったライブは、Twitterユーザに共有できる時間を提供する。この性質に着眼して、もっとうまく盛り上げることができるのかもしれない。具体的にアイディアが思いつかないけど、例えば、今のUstreamの音楽ライブは配信者とTwitterユーザとが繋がっているだけだが、Twitterユーザ同士が繋がることができるような工夫ができるかもしれない。野球場でウェーブが発生するような。ライブでの手拍子のような。あるいはコール&レスポンスのような。宍戸の音楽に限っていえば、あまり連帯を促すような音楽ではないと思うので、難しいのかもしれないが。。

■再びツイートの有効時間について
 前述の通り、一つのツイートの有効時間は総じて長くはない。だから、本当はアナウンスには向いていないメディアなのだろう。だから今は、その情報伝達の確実性を確保する手段として、メルマガを考えている。楽曲をリリースしたときに、それを欲している人に確実に伝えるにはよい方法なのではないかなと思う。

まだあります。
続く。

シシドヒナタ

1年間の反省その1(Twitterの口コミについて)

 えーと。
 2010年も終わり、この一年の音楽活動について振り返ってみたいなと思う。おおまかに次のような活動をしてきた。

・ホームページ上で月一回の頻度で楽曲をリリース
・Twitterにてリスナーと交流していく中で
 リリースのアナウンスなどを行う。

 始める前には、ありがちのことだが、ずいぶんと大きく皮算用していた。1年たって、自分を取り巻く環境が変わったのかと言われると、あまりそうでもない。とはいえ、全く変わっていないのかというとそういうわけでもない。状況を打開できなかった原因として

・楽曲自体の魅力の不足
・各局面での判断や施策の不徹底

つまり、力不足だったとは言えるのだが、その前に、目論見と現実を対応させつつ雑感を書いてみたいと思う。

■ツイートによる口コミ
 目論見としては、Twitter上で大きな口コミが発生し、多くの人に認知されることを期待していた。しかし、全く発生しなかったわけではないと思うが、期待するほどではなかったなと思う。
 思うに、Twitterにおいて口コミの1要素であるリツイートは、ユーザーが、自分のフォロワーにとっても有益だと判断した場合のみ発生する。フォロワーにうざい思いをさせてしまうからだ。ユーザーが仮にシシドヒナタを応援しているのだとしても、フォロワーのTLを応援ツイートで埋めてしまうのも心苦しいので、あまり頻繁にはリツイートできない。
 そういう意味ではシシドの楽曲は、サザンや宇多田ヒカルのような誰もがよいと思うだろうと確信させるには至らないものなのだろうと考えることもできる。そんな中で感想をツイートしてくれたり、アナウンスをリツイートしてくれたりしてくれる方々は、シシドにとって非常にありがたかった。

■ツイートによる認知
 しかしながら、大きな口コミが「まだ」発生していないというだけなのかもしれない、と、期待もしている。誰もが面白いと思うようなネタ系のツイートは、口コミの伝播が非常に早いように思う。あっという間に広がる。それと同様のことを自分の音楽について求めるのは、そもそもが間違っているのかもしれない。
 シシドのフォロワーのフォロワーは、時々、「シシドヒナタ」という言葉を目にしていることだろう。その記憶は、いつかTLに楽曲へのリンクが流れてきたときなどに、視聴する敷居をいくらか下げてくれることだろう。つまり、道端で遭遇する広告のように、感想ツイート及びリツイートは機能してくれるんじゃないか、と今は思っている。
「TLでときどき「シシドヒナタ」という名前が流れてきて、ちょっと気にはなっていたんです」という感じで僕のことを知ってくれる人が少しずつ増えている気もする。

続く。
あんまり対したことは書けていないけども。

シシドヒナタ

タイガービル

タイガービル。



村上春樹の作品と偽史的想像力の魅力について、わかった。

やっとわかった。
何の本だろう、あれは。村上春樹についての批評で
村上春樹の通称羊三部作を中心とする小説群について
偽史的想像力と言っていたものがあった気がする。

確かに、またどっかの村上春樹批評本で
羊三部作やノルウェイの森の年表が作られていた記憶があるので
確かにそうだなあ、と思っていたのだけど
それが作品としての魅力にどう貢献しているのか
いまいちピンと来ていなかった。

つまり、
「ふふん、村上春樹は偽史的想像力ね、なるほど。。。だから?」
という感じだった。
僕は頭の中で特に年表も作らないし。

しかし。
ここんとこ、見ていた
「とある魔術の禁止目録」
「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」
についてぼんやり考えていたら、
ふっと、「ああ、偽史的想像力ってこういうことだったのか」
と理解した。

と言ってもこれらのアニメ作品において
偽史的想像力の発現が顕著なのかというと
別にそういうわけでもない気もする。
しかし、偽史的想像力を含むキャラ設定など各設定があって、
それらを格納するデータベースの存在が、
これらのアニメにはあると思う。
そして、アニメを見るうちになんとはなしに頭の中で
そのデータベースの内容を補完して楽しんでいる自分が、
確かにいた。
それを思い出し、村上春樹の小説の魅力の一つとしての
偽史的想像力というものについて理解するに至った。

そういうわけなのです。

村上春樹の羊三部作、ノルウェーの森では、
他の小説家なら書き込んだであろうクライマックス
俗にいう修羅場みたいなものを書き込まないことが多いように思う。
羊三部作の「羊をめぐる冒険」と「ダンス・ダンス・ダンス」
の間では「僕」は職場の事務?の女性と結婚し
そして離婚している。
そういったメロドラマ的なエピソードは小説の中では
語られず、単にほのめかすのみに終始する。
そして読者はなんとなく「結婚してもう離婚したらしい」
とか、「好きな女性が自殺したらしい」
こと経緯を頭の中で補完するのだ。
多分、偽史的想像力を誘導する箇所が
他にもたくさんあると思う。
上記長編小説のスピンオフ的な位置づけに読めてしまう短編小説だってある。
読者はそれらの情報から、
ことの経緯をなんとはなしに想像して了解するのを楽しんでいる。

そうか。そういうことだったのか。

そして実は、
それらのことを考えるに至ったそもそもの動機は
自分の楽曲をどう作っていったらいいか、という問題があったからなのだけど
ここまでの結論を使うと、
その偽史的想像力というものを楽曲の制作に何か応用できないだろうか
という問題が次に設定できる。

うーん。

自分の作品は基本的に
話の流れの中の、ある一場面を記述するのに終始して
その場面の発生の経緯や明確な思いみたいなものは
リスナーに想像させる、という手法をずっとやってきた。

だから、歌詞に明確に書かれていない作品内の事実を
リスナーが想像する、という意味では
偽史的想像力と親和性はあるような気がする。

しかし、僕は一つのテーマを
複数の作品に分けて書くということはしていない。
なので、村上春樹の小説群で発生する
作品間の行間のようなものは醸成されるに至っていない。

もちろん、僕の作品の全ては一貫した僕の考えが
込められているわけではあるけど。

でも、もしそれができたら面白いかもしれないなあ。
誰か音楽やっている人でこういうやり方に興味がわいた人がいたら
是非やってみてほしい。

あえていえば、僕の楽曲のそれぞれの歌詞は
それを作った当時の僕の考えが反映されているため
シシドヒナタ自身のビルデゥングスロマンとして
読み解くことは可能であるのだろうけど。
それははっきり言って恥ずかしい。うん。

いやあ、でも今日はちょっと
すっきりした気分になった。

よかったよかった。

最近。

久しぶりにブログを更新するのです。

できれば昔よく書いていたように
何らかのたわいもない発見を書きたいのだけど、
最近のそれは、
自分の個人的なこととの結びつきが強くて
うまく一般化できていないので
書くのを躊躇してしまうのでした。

なので、まだ発見していないことを
これから発見して書きたいと思います。

えー。
なんだろねー。

こーねー。

新規にリスナーを開拓したいんですよね。
Twitter上では
決まった方々が応援してくれているのですけど
その方々以外の人たちが増えていかないのですよ。

あ、愚痴になった。

その応援してくれる方々が
友人とかだったら、
まあ、つきあいで応援してくれているんだなと
思って、

あ、うん、僕の曲は良くないんだね。

と思うことも出来るのですけど

実際のところ、
Twitter上で初めて知り合った人のほうが、はるかに多いわけです。
それはもう。
そうすると、

人によっては魅力的に感じてくれるらしい

と思ってしまうではないですか。

しかし、新規になかなか人は増えていかないと。
これはなぜだろうと考えないと行けない。
考えなくてはいけないのだけど
基本的に制作は余裕がない為、それを後回しにしてしまう傾向があるわけです。
それはよくない!

それはよくないねえ。

根本的な原因としては

人々にあまり聴かれていない。

というのがあると思うんです。
その証拠としては、YouTubeの閲覧件数が上げられる。
全然伸びてない。
閲覧件数の伸び悩みの原因の中には
大きくはもちろん曲の魅力も含まれるとは思いますけど
そもそもとして、シシドヒナタの曲を聴こうと思う
その頻度が少ない!と考えられるわけですわ。

なぜ聴こうと思ってもらえないのか。

・シシドヒナタのことを知らない
・シシドヒナタのことを知っているが興味が湧かない

この2つ原因が考えられる。
まあ、いつだってここに戻ってくる。
僕がもし天皇家の皇太子とかであれば
ちょー閲覧数伸びると思う。

でも僕は親はサラリーマンで
どうやら農家の出らしいし。

というわけで
僕のことを知らないのはしょうがないわけだ。
じゃあ、どうやって知られればいいかっていうと。
お金をかけて広告をばんばん打つか、というと
そんなお金はない!人望もない!

じゃあ、結局のところ

・シシドヒナタのことを知らない

を現状以上に改善するのははっきり言って無理、と。
ならば、

・シシドヒナタのことを知っているが興味が湧かない

ここを改善するっきゃないわけだ。
つまりだ、
シシドヒナタを知ったときに
興味を持ってもらえる確率を増やすにはどうすればいいか。

つまりだ、毎日Twitterでつぶやいているわけですよ
何かは。
だから、人々のタイムラインには表示されるわけだ。
しかし。それがシシドヒナタへの興味へと繋がらないのです。

まあ、流れるしね。ツイートは。あっという間に。

でも。
ここまで考えて、ちょっと課題が見えてきました。

・「シシドヒナタのことを知らない」を改善するのは、難しい。
・「シシドヒナタのことを知っているが興味が湧かない」を改善する必要がある。
・日々のツイートをシシドヒナタの興味へと繋げるようなものにする必要がある。

というわけで、
ちょっとは発見があった。
集客っていうのは、今は難しい。
近づいてきた人の心をつかむ方法を改善しないといけない
ってことだ。

あー。
俺ほんと頭悪いな

Twitterの抜粋 2010年09月28日(火) – 2010年10月04日(月)

Ariel Pink のアルバムが届いた。驚異的なダサさ。80年代の直視したくないとこをよりによって全てかき集めて凝縮したかのような絶望的なダサさ。しかし僕の脳内は「これは名作だ」とアラームが鳴っている。 http://youtu.be/93Y_oFrgegE

入った店の店員のおばちゃんがひっぱたきたくなるくらいぶりっ子。ああ、そんな思いを抱いてしまった自分をお許し下さい。。。

主体性を手放してはいけない。主体性を持って行動し続けることで、その後起こるかもしれない裏切りに耐えることができる。勇気によって不安を少なくとも自分の目で捉えることができるようになる

スッポン鍋を食べるなら、浅草の「みよし」がオススメ。赤坂の老舗よりリーズナブルでかつ美味しい。食べログの点数は過小評価になっていると思う。 http://bit.ly/c36QAe

僕は1時間くらい、尾崎 豊長男(となお?)という名前なんだと思っていた。
なんてふざけた名前を息子につけるんだと。豊さんも人が悪いと。

隣の席の綺麗な女性の、飲みの途中で涙が出てしまいでもそのまま化粧直しもしないという確信犯的姿の、その確信犯度合いに美しさを見いだすなど

思うがあやとりがうまいというのは、素晴しいことだと思うね
あやとりができるということは、(1) 本に書いている文や絵を理解して、自分で実践できる(独学ができる) (2) 指が器用になって、脳が発達する(このへんてきとー言ってます) という長所がある気がする。特に(1)はわかりやすく良い財産なのではと。

マイクタイソンもtwitterやってんのか。。。こうして写真ばっか見ると、日本の芸能人と変わらない印象になるなあ http://twitpic.com/photos/MikeTyson

同性を代表して意見を言うこと(ほぼ日モテキ座談会読んだ)

ほぼ日でやられている、
モテキの作者久保ミツロウさんを
囲んだ座談会を読んだ。

http://www.1101.com/moteki/

面白かった、気がする。

僕が抱いた感想は、
「結構、簡単に同性を代表して意見を言っているなあ」
というものだ。
(ごめんなさいまたどうでもいい感想で)

どういうことかというと、
男性というのはこういうものなんですよ
というふうな形で
自分は男性で、だから男性のことはわかっている
というスタンスのことを言ってます。

僕はどうもそのように
「自分が男性であることによって
男性を代表した意見を言う」
ということに抵抗を感じてしまうようだ。

多分、それは
男性だからってみんな同じなわけじゃない
という思いが強いのだと思う。

もっとも、
悪く見れば、僕は未だに特別でありたいという
願望を持っているだけなのかもしれない