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最近やっていること。

えっと。最近何をやっているのかというと

(1)「川と花」のミックス
(2)ホームページの検討
(3)ジャケットの選定 といった感じです。

まあ、誰ももはやそんなに期待していない可能性もあるんですけど 作業しています。

詳しく書きます。

えー、「川と花」という曲がありまして、
月刊シシドヒナタで公開したんですけどちょっとそのミックスでは
品質的に問題だと思ってミックスし直しています。
公開時のミックスではちょっとドラムのコンプレッサーがきつすぎるし、
大きな音で聞いたときに気持ちよくなれないなと。
でも、ドラムのミックスがどうもうまくいかず 半べそかきながらミックスしています。
困った。。。

次にホームページの検討なんですけど アルバムをリリースするにあたり、
ホームページも徹底的に考え直したいなと。
なのでホームページって何の為にあるのか?
みたいな根本的なところから考え直してみてます。
こちらは「川と花」よりスムーズで おおまかな考え方は固まりつつあります。
今度どういうふうに考えているか、書きます。

ジャケットの選定は、Tumblrを駆使して レーベル主宰と一緒にあーでもないこーでもないとやっています。
こちらはわりと楽しいです

とにかく今困っているのはミックスです
なんでNigel Godrichはあんなに素晴らしいミックスができるんだろう。。
そんな感じっす。

並行して何やらサイトも作っていたのですけど
わりかし野心的かつシンプルなコンセプトで
わりかし人々をわくわくさせるようなサイトだと思うんですけど
ミックスがうまくいかないのでこちらは凍結中。

泣きたい

ミュージックビデオについて考えてみた。その2

前回の記事で書いたMVについてなんだけど、あんまり刺激的な結論には至らなかった。で、後でまた考えた。
 
 現在のテレビというものは、未だ人々に認知してもらう力がとても強い。だから、放送さえされればある程度の認知度は見込めると(視聴率1%でさえ100万人への認知だ)。一方ネットはテレビのような「認知させる力」は自明ではなく、従って「認知させる力」を別の何かから調達したり構築したり、MV自体がそれを兼ね備える必要が出てくる。そこが考慮されていないと、せいぜいがアーティストイメージの醸成ツールにとどまる、ということなのかなと。いや、アーティストイメージはそれはそれで重要なのだけど。
 つまり音楽番組などのテレビの放送枠に入り込むことがMVを使用したプロモーションの第一優先事項であり、その次の優先事項がアーティストイメージの醸成考えるという感じなんじゃないか。バンド本人を出演させた映像が多いのは、アーティストイメージの醸成には本人を出すのが有効だと考えられているからなのだろう。
 というわけで、これからのMVは「認知させる力」を兼ね備えることを要求されることが多いんではないかと思う。つまり、口コミを誘発させる力だ。
 従来のテレビで放送されることが考慮されたMVと、ネットでの「認知させる力」を考慮したMV。それらを比較するのに最適な例として、サンボマスターのラブソングがある。この楽曲は公式MVと箭内道彦氏による自主制作版が用意されている。
 
 ・公式

 ・自主制作

 
 一目見てわかると思うけど、ネット上での「認知させる力」を兼ね備えているのは自主制作版だと思う。自主制作版のほうが人々に共感を抱かせやすいと思う。その共感によって人々は、他の人に薦めたりし、結果として口コミが発生しやすくなっていると思う。
 公式MVは、僕はテレビ用のMVとしてちゃんとしていると思う。しかし、これで口コミが発生するかというと、難しいんじゃないかと思う。
 なぜ、そうなのか。ちょっと僕にはうまく説明できる自信がない。
 でもまあ、書いてみる。
 公式MVは、一つには説明的すぎるのかもしれない。
 
 ・男性が浜辺で泣き崩れて(悲しいことがありました)、
 ・傍らには焼いたラブレターが置いてあって(女性と別れました)
 ・車の中でサンボマスターのボーカルが歌って(サンボマスターの楽曲です)
 ・おぼろげに女性の姿が映って(女性のことを思い出しています)

僕はこの映像との間に距離を感じてしまう。MVが提示している物語に対して「ありがちな物語だな」と感じてしまう。感情移入はしない。
 一方、自主制作版はその粗く手ぶれしまくりの映像にもかかわらず(いやだからこそなのか)、そのように突き放した見方はできない。説明されている感じはしない。ありがちな物語とも感じない。普遍的な喪失感が凝縮されている、みたく感じてしまう。
 その仕組みは僕にはうまく説明することはできない。だけどこの自主制作版は見事に人々の共感を引き出していると思う。
 話を戻す。ともかく言いたいのは(完全に憶測でしかないが)、自主制作版は共感→口コミというルートが明確な、「認知させる力」のあるMVということだ。
 「認知させる力」を兼ね備えさせるには、何も「共感」だけではない。OK GOのMVは、ルーブ・ゴールドバーグ・マシン(ピタゴラスイッチ)的な映像によって口コミを発生させることに成功していると思う。
 

 なんか書いてていつの時代の話をしているんだよって気がしてきた。。。
 これらのことだって昔から言われてきたじゃんか。。。
 もうちょっと考えないと。。
 
 

ミックスが憎い

あー。今日は暗いです。
なぜかっていうと、なんでミックスってこんなに
うまくいかないのかって思うわけです。

ミックスする部屋やスピーカーや配置に原因があるのだろうか。
と思いつつ、過去にはうまくやれたミックスもあるから
そこまでひどくはないはずだと思う。

もう10年以上もミックスの真似ごとをしているけど
未だによくわからない。あんまり上達していない。

曲ごとに「こうあるべき」という音のイメージの範囲があるのだけど
その範囲内に到達してくれない。
なぜ届かないのかわからない。
その曲が「こうあるべき」状態にないままリリースされることを思うと
とても許しがたい。
僕はそういうふうに自分の人生を過ごしたくはない。

かといって4年も同じ曲をミックスしているという事態自体も
許せないんだけど。ふがいない。

何回も聴いて耐えられる作品にしたい。
大きな音でかけてら気持ちいい作品にしたい。
イヤホンで聴いてら周りの風景が変わってしまうような作品にしたい。
その為にはミックスがある程度許せる状態になってもらわないといけない。
僕の音楽の場合は。そうでないのは許せない。
「宅録ならでは」みたいなエクスキューズをつけたくはないのだ。
最初からそれを狙っているならともかく。

って書くと、完璧主義者のように聴こえるかもしれないけど
いやほんとひどいんです僕のミックスの腕が。
そこまでとんでもないものを求めているわけじゃないはずなのに。

とにかく。
許しがたい。
駄々っ子のように「こんなのいやだ」と憤慨して眠る毎日です。数年。

プンスカ。

ミュージックビデオについて考えてみた。

 昨日某所へ出かけ、いろいろな映像を見ていて、ミュージックビデオ(プロモーションビデオ、ミュージッククリップ、以下MV)について考えた。 常々MVで何なんだろう、と思っていたのだ。つまりMVはもともと、テレビの存在という前提があって流行したプロモーション手法なわけで。 ネットの出現によってMVの役割がどう変わっていくかは、一考の余地ありと思うのだ。

 というわけで考えてみた。 例によってほとんどソースも提示せずに仮説に仮設を重ねていくので、見当外れに終わるかもしれないけど。

 まず、ネットが普及するより前はMVはどのようなものだっただろうか。多分思うに、テレビという視覚メインのメディア上で音楽を宣伝する為のものだったんだと思う。テレビの台頭によってラジオが衰退し、音楽の宣伝の場がラジオからテレビへ移っていく際に発明されたものがMVなんだと思う。多分。
 とは言っても、僕の記憶ではMVというのはあまり一曲をフルで見る機会のないものだったけど。 だいたい深夜番組でかかってたり、スペースシャワーTVみたいなケーブルテレビの一チャンネルで使われていたイメージ。 多チャンネルなケーブルテレビが発達したアメリカのほうがMVの有効性は高かったんだろうと思う。
 ともかく。テレビ用のプロモーションの一手段だったことは間違いない。

 次にネットが普及してからのMVって何なんだろうと考える。テレビ上でのMVとネット上でのMVは、同じプロモーション目的であったとしても求められる特性はかなり異なってくるんじゃないかと思う。 テレビとネットの特性が異なるものである以上は。さらに言えば、MVはこれまで音楽のプロモーションのツールだったわけだけど、これからもそのままなのだろうか。

 考えてみた。テレビ上でのMVとネット上でのMVは、どう異なるんだろう。
 まず、テレビ上のMVについて。テレビ番組というものは決まった時間に放送されるので、テレビ番組は似たような生活パターンの人々と共有されるものだったと、言える気がする。ビデオの出現によってそれは多少は緩やかにはなったものの。依然としてその傾向は強いように思う。主婦が見る時間帯、学生が見る時間帯、サラリーマンが見る時間帯、家族でみる時間帯、というふうに。それによって、ターゲットの設定とターゲットに合わせた番組作り、という考え方が発生する。MVもその影響を受けていると思う。深夜番組(学生向け?)で放送されるべきMV、ゴールデン(家族向け)で放送されてもよいMV、というふうに。また、テレビ番組の一部としてのMVという面では、リアルな人間関係の人々と共有される傾向が強いように思う。家族で同じ部屋でテレビを見るという習慣が日本では浸透していたし、もっとも生活パターンが似ている人々というのは、クラスメイトや職場の同僚だからだ。
 まとめると、テレビ上のMVは、

 ・似たような生活パターンの人々と共有される。
 ・リアルな人間関係の中で共有される。

傾向が強いと考えることができそうな気がする。
 次に、ネット上でのMVはどうなんだろう。 現在のネットではTwitterやmixi、facebookなど、程度の違いはあれど、リアルな人間関係を超えて人々と情報をやり取りするサービスが隆盛だ。また、Youtubeなど動画サイトによって人々は好きなタイミングで動画を見ることができる。大きいのはGoogleなど検索サイトによって人々が見たい動画を検索して探すことができることだ。
 そこから思うに、ネット上のMVは

 ・それを見たい人々の間で共有される。
 ・リアルな人間関係にあまり影響されずに自由に閲覧される。

という傾向があると言えるんじゃなかろうか。またSNSの存在によって、

 ・魅力的なMVの場合、口コミが発生し再生数が大幅に増える。

というのがある。テレビの場合、例えば友人に薦められても、見たいと思った時に 番組で放送されるわけではないので、口コミはネットほど発生しにくいように思う。
 多分極端な話、テレビの場合「5分なら5分だけ放送の時間枠を埋める」ということが 最大の重要事項だったんだと思う。 そこまで素晴らしい出来じゃなくても、映像がありさえすれば 後は、楽曲自体の人気やアーティストの人気、その他諸々のバランスで放送が決定されたわけで。 MVの出来によって放送されるかどうかが判断される、 ということはあまりなかったんじゃないだろうか。 そして、放送さえされればプロモーションという目的、 つまり「楽曲を広く認知させる」という目的は達成されている。 しかし、ネットの場合はMV自体の出来の良さが その再生数(=認知)にダイレクトに影響するように思う。 つまり、MVというものを楽曲のプロモーションツールと捉えた場合 ネット上のMVでは、その出来の良さが認知度アップに貢献する、ということだ。

 いや、当たり前っちゃ当たり前なんだけど。
 テレビの場合は、視聴率の高い番組にいかにMVを忍び込ませるかのほうが 重要なわけですよ。きっと。

 つづく。

アルバム、準備中です。もう少しかかります。

出す出すと言って未だに発売日をアナウンスできない二枚目のアルバムについて。

まだ準備中です。非常に申し訳ない。一つ仕掛けを考えていて、それに向けて準備をしていたのですけど最終的にボツになりまして。その分まるまる遅れているという状況です。今はまたアルバム自体の準備に戻っています。もう少々お待ち下さい。

実はアルバムとは別にもう一つ企画していることがあり、そのプロトタイプを何人かの信頼する人々に見せて、意見を聞いて回っています。本当に実現できるのか僕にもよくわからないのですけど、自分のこれまでの生きてきた流れからすると自然な企画のような気がしています。って言ってもわからないですよね。

でも実現できたらきっと、ちょっと世の中にとって楽しいことが起こるはず。

と、ここで書いてしまったからにはもう後戻りはできないんだろうなあ。

そんなこんなで。最近はそれらの作業で深夜まで起きていることが多いのですけど、そんなある日ふと思い立って、自分の楽曲を聴いてみました。ミックス手直し済みのものを。久しぶりだったけどまあ、悪くない(自分で言ってるし)。全部、何かのエンディングテーマみたいな感じがした。地味ってことでもあるんですけど。

夢の中で、夢の中では知り合いである人とさよならをしているところで、僕は脳みその片方ではこれは夢だとわかっているのだけど、もう片方ではその人とさよならをしたくない。目が覚めて仕事に行かなくちゃいけないけど、まだ、その実は全然知らないけど夢の中では知っている人にさよならをした、その時の感触が残っている。そんな感じ。すみません言いすぎました。これは願望です。そんなアルバムにはなっていないかもしれない。

でも、そういうものを目指したいのです。

あ、そうか。そういうアルバムタイトルにすればいいのか(どういう?)。

というわけで、まあいろいろやってます。明日もタスクリストを更新してガツガツつぶしていかなくてはいけない。ガツガツつぶした先に何があるのか、そんな風に生きていったいなんになるのか。っていう気もするけど、仮に人生が長い長いゲームだとしてゴールする時に面白かったと思いたいのです。長い長いゲームというのは仮の前提だから、それが間違っている可能性もあるのだけれど、だからといって間違っていないとも言い切れない。よって間違っていなかった場合に備えて、仮に人生が長い長いゲームだったとしても問題のない生き方をしておくのが、賢い生き方というものだろう。

というわけで(また言ってしまった)、明日もタスクリストを更新してガツガツつぶしていくのです(そして時々さぼったりもする)。

くどいな。。。

最近知ったこと。

ブログ再開三回目。三回続いた!

予定通りゆるーくいきます。
そこで思うのが

まあ、書くことがないなと。

最近知ったこと。

・マロニエ=栃(とちのき)
・来福=福岡に来る
・来仙=仙台に来る
・インド大使館のビルがモダンな造りなこと
・根津神社に鳥居がたくさんあって狐の石像がたくさんあること
・対人恐怖症は日本の文化依存症候群なのだということ

最近気がついたこと。

僕の楽曲には善悪の判断が存在しない

音楽はまず聴かれないことには始まらない – 後編

というわけで、

・音楽はまず聴かれないことには始まらない – 前編
http://www.shishidohinata.com/1009

の後半です。


音楽はまず聴かれないことには始まらない

そういうわけで、邦楽の売り上げが落ちている大きな要因として、まとめると、
実は人々が音楽と偶然出会うことがあまりなくなっているんじゃないかと。

YoutubeやらMyspaceやらいろいろ音楽を聴ける環境にはあるけど、
それらはまず「この音楽が聴きたい」というニーズがあって
初めてアクセスする場所であって、
偶然出会う場所として最適化されている訳ではないと思う。

僕が自分のホームページを作った時にいろいろな人に言われた
「SEOをきちんとやらないと」というのに疑問を持ったのと同じだと思う。
SEOはニーズが潜在顧客の中にあって初めて成り立つ。

音楽というのは、はじめにニーズがあるのではなく、
はじめに「音楽を聴く」という行為があって初めて成り立つ。

根本的には、ある音楽を聴きたいと思うのは、
その音楽をかつて聴いたことがあるからだ

あるいは、
ある「人」の音楽を聴きたいと思うのは、
「その人」の音楽をかつて聴いたことがあるからだ。

音楽を聴く機会が減れば、音楽を聴きたいと思う人が減るのは当然だ。
音楽を含め娯楽は全て、それと接することが、
その良さを感じることのトレーニングになっている訳で。

だから、犬が歩いていたら棒に当たるような
音楽と邂逅する場所というのを
僕ら(音楽業界の人間)は再構築しないといけない。


インフラを整えることが大事

というわけで音楽業界は今、
人々が音楽を聴く為のインフラにお金を投資すべきだと思う。

他業界からの例を幾つか見てみる。

自動車は、道路というインフラに全く投資していない

まずはこの記事

・いつ来るか分からない15分のために常に準備しているのがプロ、デザイナー奥山清行による「ムーンショット」デザイン幸福論
http://gigazine.net/news/20110908_moonshot_design_cedec2011/

この記事はほかにも非常に面白い話題満載なのだけど、その中で、

「自動車は、自動車のやるべきインフラ整備という一番大きな宿題をやっていない。
だから街の中で全然生き生きとして使われていない。」

という発言があった。こういう問題意識が必要なんだと思う。

鉄道会社の戦略

東急電鉄による多摩田園都市の開発 http://bit.ly/oZNkZc
「電車で儲かるにはそれに乗る人を増やせばいい」という側面があったはずだと思う。

漫画雑誌の効果

これも憶測だけど、赤字が多いという漫画雑誌、立ち読みされる漫画雑誌。
しかし漫画雑誌で面白い作品に出会う人は多いんじゃないかと思う。
漫画雑誌は「新しい作品と出会う」という点においてとても
優れた仕組みだと思う。


どうやってインフラを整えようか

いろいろ難しさはあると思うけど、幾つか参考にできそうなものを。

高松聡氏の「教えてgoo」プロモーション

http://biz.toppan.co.jp/gainfo/cf/18_takamatsu/p1.html

「教えてgoo」のプロモーションで街や駅の広告看板を使って展開するやつとか、
カップヌードルのCMでスペースシャトルを広告媒体としてしまうとか
今まで存在しなかったメディアを作り出したり
古いと言われていたメディアを新しい視点で再構築したりという
視点が必要なんじゃないだろうか。

Twitter

月並みなんだけど、僕はTwitterのようなSNSは大変可能性があると思う。
Twitterが特に1、2年前面白かった理由は、

Twitterとはなんだったのか——「コンテンツ」としての日本Twitterユーザー(前編) – アーキテクチャ編
http://d.hatena.ne.jp/gotto-s/20091129/1259499363

で詳細に分析されているけど、
つまりは、面白い人を知る機会が格段に増えたからだと思う。

そしてなぜ、それが可能だったかというと、
Twitterの「テキスト情報がプッシュ配信される」アーキテクチャによるものが大きいと思う。

プッシュ配信をフィルタリングする仕組みがフォローという機能な訳だけど
人をフォローするだけだから、流れてくるテキストを完全にはコントロールできない。
テレビやラジオもプッシュ配信だから音楽の流行を作り出せたのだと思う。

売り上げを稼ぐのも大事だけど

ここ2、3年、音楽データ販売サイトやCDのネット販売などが盛り上がっていた気がするけど
それらはニーズが発生した後に必要な、いわば「受け皿」であって、
多分、音楽業界に最優先で必要とされているものではないと思う。

僕らが今考えるべきなのは「どうやってニーズを増やすか」だと思う。


最後に

以上です。大手CDショップの視聴機に変わる出会いの場所に
投資すべきというお話でした。

我ながらかなり乱暴な文章だ、、、
ブログを再開したばっかだから、ほとんど誰も読むことはないだろうけど
割と的を得た意見なんじゃないかと思ったりしている。

ブログ再開は、目標としては週1回の更新を考えています。
今回はこんな固い内容だけど、

普段はもっとゆるーい内容を書くつもりです。

ここまで読んでくれて、ありがとうございました。

音楽はまず聴かれないことには始まらない – 前編

ブログ再開します。

今から書くことは、問題意識として

「邦楽って衰退する一方だなあ」

というのがあって。結論としては

「音楽はまず聴かれないことには始まらない。」
「音楽と偶然出会う場所が縮小傾向」

という話。
それで章立てとしては

  • 要約
  • 僕はどこで音楽と出会っていたのだろう
  • 最近の風潮の勝手な憶測
  • 音楽はまず聴かれないことには始まらない
  • インフラを整えることが大事
  • どうやってインフラを整えようか
  • 最後に

という感じ。2回に分けます。

要約

昔はテレビやラジオやCDショップで邦楽を聴きまくっていたけど、
今はそれぞれ邦楽を聴く場所としては縮小傾向だなあと。
音楽というものは、聴かないことには良さがわからないし、
聴き続けないと欲望も育たない類いのもの。
だから、邦楽がこのまま廃れていくのを防ぐには
まずは邦楽を手軽に聴けるインフラを作ったり支援したりすることが
必要なんじゃなかろうかと。
(ポピュラー音楽というものは
思想的に観点からして前時代のもので遅かれ早かれ衰退が約束されている
みたいな話もありそうだけど)

僕は音楽とどこで出会っていたのだろう

こんな感じだった。
・小中学時代:テレビのドラマや音楽番組で出会っていた。
・高校大学時代:CDショップの視聴機やラジオで出会っていた
・社会人:CDショップの視聴機、ごく短期間だけどMySpace

邦楽が衰退する一方のについての勝手な憶測

幾つか、邦楽が衰退する原因を考えてみた

邦楽は恥ずかしい

僕はテレビを持っていないので100%憶測なんだけど、
今テレビで流れている音楽ってあまり面白くなさそう。
というのも、ラジオはほんの時々聴く機会があるのだけど、
そこでパーソナリティのお喋りの合間に時々流れる邦楽が
ものすごく恥ずかしい、と感じるからだ。
つまり、同じような邦楽がテレビでも流れているんじゃないかと。
どう恥ずかしいかっていうと、青臭いだけならまだいいんだけど
消毒されているというかなんというか。
このページが結構代弁してくれている感じ。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1070640450

というわけで、既存の邦楽好きはもはや最近の邦楽をあまり聴かないんじゃないか。
特に洋楽も両方聴く、みたいな人たちは。

若者のテレビ離れ

そもそも若者はテレビをあまり見ないらしい
http://www.garbagenews.net/archives/1814508.html
僕はもはや若者ではないけど、家にテレビを置いていない。
だけどなんというか、テレビやメジャーレーベルが奨める音楽に対する
信頼性というのが減っている気がするなあ。

ラジオの音楽離れ

これは数年前からなんだけど、ラジオって音楽をあまりかけなくなった気がする
基本的にお喋りばかりで、ちょっと休憩みたいに音楽が流れる。
そういえば、KARAとかKPOPってあまりラジオでかからない気がするんだけど
気のせいだろうか。まあ、映像と一緒で初めて成り立つものではあるのかもしれない。

大手CDショップ離れ

大手CDショップになぜだか僕は行かなくなってしまった。
昔は帰宅途中でわざわざ寄っていったりして視聴機で聴きまくっていたというのに。
Youtubeなどネットの影響で視聴機の必要性が薄まったというのもあるだろうけど
大手CDショップは「新しい音楽を提案する」機能もあったはず。
それが弱まった気がする。多分いろいろな要因があるのだろう。
下記を読んで、そう思った。

・HMV渋谷店が8月に閉店で思うこと。
http://togetter.com/li/27740

まあ、そんな感じ。後編はじゃあどうすべきか、という内容かな。。。

Tumblr更新したった:抽象から具象へ美から醜へ行ったり来たり。

Tumblr更新したった
抽象から具象へ美から醜へ行ったり来たり。

・狭くて深いシシドヒナタの穴TUMBLR版
http://shishidohinata.tumblr.com/

不謹慎で個人的で非社会的な地震の感想

 学生時代などは、あまりにぱっとしなすぎて、いつも非日常を切望していた。いつか大きな緊急事態が起こって、僕の日常をメタメタに破壊してくれないかなと。うだつのあがらない学生がいかにも思いつきそうな凡庸な願いだ。そして例によってうだつのあがらない学生らしく、何も行動に移すことはなかった。

 まあ、おおかたの学生は、非日常を切望するものなのだろうと思う。2000年あたりに学生だった人々は、特にその傾向が強いかもしれない。世紀変わったし、1000年の節目だし、エヴァンゲリオンも放送されたし、オウムサリン事件や阪神大震災も起こったし。

「もし非日常が来たなら」と僕はよく自問自答した。
「僕は「まともな人間」でいられるだろうか。」

 僕は非日常が来たときに、友人を裏切ったり、パニックに陥ったり、デマに踊らされるような人間になりたくなかった。賢く状況を判断し、大事な人たちを助けたりしたかった。それが僕の思う「まともな人間」だった。
 要は、僕は(和製英語的な意味で)クールな人間になりたかった。ハードボイルドと言ってもいい。
 本や漫画やアニメの影響を大きく受けていたのだろう。やつらの世界はいつだって非日常に溢れているから。主人公のようにとまではいかなくても、主人公から信頼される重要人物のようになりたかった。宮台真司は「終わりなき日常を生きろ」と言っていたが、娯楽作品に非日常が楽しげに描かれている以上、それを切望しないでいるのは無理な話だ。

 そして、月日が流れ、3/11が来た。

 今回の地震は、まさしく大きな緊急事態であり、ぽっかりと巨大な非日常が発生した。僕は不謹慎にも初めからワクワクしっぱなしだった。

 やっと来たと。やっと切望していた非日常が来たと。
(まあ、東京の被害なんてたかが知れているのだけど)

 僕は長年夢想してきた「まともな人間」の指針に従い、彼女を迎えに行ったり、彼女の不安な気持ちをケアしようと努め、放射能について正しい知識を得ようと、友人がかつて言っていた「ネットで調査する際気をつけること」を思い出し、情報の出所まで遡って読み、時に英文も辞書片手に読み、政府と民間の放射能モニタリングポストを比べ、つまりは賢く冷静であろうと努めた。
 冷静と言いつつ、テンションはだいぶ高かったと思う。なんたって、やっと訪れた非日常なのだから謳歌しないわけにはいかない。そんな感じで3週間くらいが過ぎた。

 僕のこの反応もまた地震によるパニックと言えるかも知れないけど、僕にしては、うまくやったほうだと思う。僕は少しだけ安心した。僕はそこまでダメな人間ではなかったと。夜間飛行(by サン=テグジュペリ)でいうエルランではなかったと(エルランはほんとダメな奴なんです)。
 もっともそのあと、高いテンションだったリバウンドが来て、2,3日寝込んでいたが。

 そして、今。4月も後半だ。
 非日常と日常でまだら模様になったような気分が続いている。

 非日常は、それまでの日常はリセットしていかなかった。非日常は、それまでの日常で積み上がったしがらみを消してはくれなかった。非日常は、積み上がったものを散らかしてくだけだ。当たり前の話だ。

 ほんとうの現実は、最終回のあとも続くのだ。いかにそれが最終回のように感じられたとしても。そして、最終回のあとも生きていくというのは、ありがちだが、最終回よりも骨が折れることなのだ。

 このゲリラ戦のような日常/非日常混在の世界で、まだ僕は、クールでいたいと願う。ハードボイルドでいたいと願う。でも、きっと、地震当日、彼女を迎えにいったときに、すれ違ってしまって彼女は悠々と先に帰宅していたように、そう僕の思惑通りには、事は運ばないのだろう。まあ、それもいつものことだ。

P.S. 今さらながら、あんま関係なく、かつ手前味噌だが、「最終回のあとも物語が続く」ことへの感情を曲にして発表したことは、なんつーか、ただただびっくりだ。(あと、水葬をモチーフにした曲を発表したことも)