学生時代などは、あまりにぱっとしなすぎて、いつも非日常を切望していた。いつか大きな緊急事態が起こって、僕の日常をメタメタに破壊してくれないかなと。うだつのあがらない学生がいかにも思いつきそうな凡庸な願いだ。そして例によってうだつのあがらない学生らしく、何も行動に移すことはなかった。
まあ、おおかたの学生は、非日常を切望するものなのだろうと思う。2000年あたりに学生だった人々は、特にその傾向が強いかもしれない。世紀変わったし、1000年の節目だし、エヴァンゲリオンも放送されたし、オウムサリン事件や阪神大震災も起こったし。
「もし非日常が来たなら」と僕はよく自問自答した。
「僕は「まともな人間」でいられるだろうか。」
僕は非日常が来たときに、友人を裏切ったり、パニックに陥ったり、デマに踊らされるような人間になりたくなかった。賢く状況を判断し、大事な人たちを助けたりしたかった。それが僕の思う「まともな人間」だった。
要は、僕は(和製英語的な意味で)クールな人間になりたかった。ハードボイルドと言ってもいい。
本や漫画やアニメの影響を大きく受けていたのだろう。やつらの世界はいつだって非日常に溢れているから。主人公のようにとまではいかなくても、主人公から信頼される重要人物のようになりたかった。宮台真司は「終わりなき日常を生きろ」と言っていたが、娯楽作品に非日常が楽しげに描かれている以上、それを切望しないでいるのは無理な話だ。
そして、月日が流れ、3/11が来た。
今回の地震は、まさしく大きな緊急事態であり、ぽっかりと巨大な非日常が発生した。僕は不謹慎にも初めからワクワクしっぱなしだった。
やっと来たと。やっと切望していた非日常が来たと。
(まあ、東京の被害なんてたかが知れているのだけど)
僕は長年夢想してきた「まともな人間」の指針に従い、彼女を迎えに行ったり、彼女の不安な気持ちをケアしようと努め、放射能について正しい知識を得ようと、友人がかつて言っていた「ネットで調査する際気をつけること」を思い出し、情報の出所まで遡って読み、時に英文も辞書片手に読み、政府と民間の放射能モニタリングポストを比べ、つまりは賢く冷静であろうと努めた。
冷静と言いつつ、テンションはだいぶ高かったと思う。なんたって、やっと訪れた非日常なのだから謳歌しないわけにはいかない。そんな感じで3週間くらいが過ぎた。
僕のこの反応もまた地震によるパニックと言えるかも知れないけど、僕にしては、うまくやったほうだと思う。僕は少しだけ安心した。僕はそこまでダメな人間ではなかったと。夜間飛行(by サン=テグジュペリ)でいうエルランではなかったと(エルランはほんとダメな奴なんです)。
もっともそのあと、高いテンションだったリバウンドが来て、2,3日寝込んでいたが。
そして、今。4月も後半だ。
非日常と日常でまだら模様になったような気分が続いている。
非日常は、それまでの日常はリセットしていかなかった。非日常は、それまでの日常で積み上がったしがらみを消してはくれなかった。非日常は、積み上がったものを散らかしてくだけだ。当たり前の話だ。
ほんとうの現実は、最終回のあとも続くのだ。いかにそれが最終回のように感じられたとしても。そして、最終回のあとも生きていくというのは、ありがちだが、最終回よりも骨が折れることなのだ。
このゲリラ戦のような日常/非日常混在の世界で、まだ僕は、クールでいたいと願う。ハードボイルドでいたいと願う。でも、きっと、地震当日、彼女を迎えにいったときに、すれ違ってしまって彼女は悠々と先に帰宅していたように、そう僕の思惑通りには、事は運ばないのだろう。まあ、それもいつものことだ。
P.S. 今さらながら、あんま関係なく、かつ手前味噌だが、「最終回のあとも物語が続く」ことへの感情を曲にして発表したことは、なんつーか、ただただびっくりだ。(あと、水葬をモチーフにした曲を発表したことも)
その独りよがりだったことによるすれ違い、他人事では
ありませんね~。
何なのでしょう?大事な人との差異、自分の感覚と現実との差異、
自分の中の自分との差異。ジョハリの窓みたいな。
最終回のあとの曲を発表したのはいつですか?
聴くの楽しみです。
なんでこんなにハードボイルドにあこがれちまったんだ!
英米文学と春樹先生のせい?
たいていの場合は、気持ちはすれ違うものですよね。。。
だから、そのくらいではめげません!
最終回のあとの曲は去年の秋くらいに発表しました。
今度Ustreamでやりますね。
ハードボイルドは、僕は間違いなく英米文学と村上春樹ですね。
ビンゴです!